日常が日常にやってくる-You Tubeというメディアを考える-

最近、YouTubeでトラック関係のものを見る事が増えた。私はそれほどYouTubeを見るわけではないが、以前大型トラックに乗っていたこともあって暇があれば関連する動画を時々見ている。iPhoneをはじめとするスマートフォンの技術の発展で身近に動画が撮れる様になってきたこととそれらを視聴する環境もよくなってきた事が普及した要因だと思う。印象としてごくありふれた仕事の風景がつらつらと録画され簡単な編集を経てほぼ素のまま流されている。この現象は一体なんだろう?と考えてみたのだ。人々が日常の様子を私たちの日常の中に提供するその意味とは?そしてその日常を見る人がたくさんいる事がチャンネル登録者数に現れているのである。需要があるのだ。

地上波テレビとも違う。本当に過度な編集もなく演出もなくそこにはその人の日常が流れている。時にはその家族も登場したりしている。これまではその人の家に入って行ってしか見れなかった風景がそこには10分15分と編集されて流れているのだ。仮にその人の家に入っていっても第三者がいるのといないのとでは振る舞い方も違うだろうから、厳密にいうと家に訪ねていった時に見れる光景でもない、ということになる。まあ少しは第三者に見られるという意識の下撮影や編集をしているのだと思うが。

見て欲しいのだろうか。日常を。それも何を食べた、どこに行った、何かをしているということを主とした映像の連なり。本来的には個人の行動であったり、家庭に関することはある程度秘密を含んだものであり、それが他者イメージを作る大きな軸となっていた様に思う。「あの人はおそらくこうだろう」「あそこの家はおそらくこうだろう」だから「いいじゃないか」「よしとしよう」「よくないなあ」などの付帯するイメージで私たちは充足していたのだと思う。メディアが発達する以前は。もしかしたら人々は以前から自分たちの事情を状況を詳細に伝えようと井戸端会議をしたのだろうし、手紙をだしたのだろうし伝記を書いたのだろう。相手がいて初めて自己が成立する、とするならYouTubeというメディアはかなりダイレクトにそれを達成できるツールであるわけで、万人が自分を知ってもらうために、自己を成立させるために活用しているのだろう。

文字や会話でそれを行なっていた時は、文字間や会話間の間隙を推察したりイメージを膨らませたりする猶予があったが、今は一つのシーン、カットの映像としてかなりの固定化された情報が受け手にはやってくる。それは受け手の日常にタイムラグや猶予なく飛び込んでくるものでもしかしたらこれまでそのタイムラグで担保されていたコミュニケーションの幅がなくなってしまうのではないかと私は危惧するのである。危惧しながらもこれも高度消費社会に入った日本という場所で起こっている消費の一形態なのかもしれないとも思うのである。

私が思うに、日常の消費の次に来るのは夢の消費ではないかと。いろんな機器の進歩で人間の夢を映像化する技術が出て来て、それを編集加工したものがコンテンツになる。そんな気がする。

ともあれ、つい見てしまうんですよね。なんなのでしょう。この心性は。。。

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