
つい先日プラトンの『国家(上・下)』(岩波文庫)を読了した。結構なページ数だった。最初から最後まで対話法によるソクラテスの語りとして実相(イデア)について論じられている。タイトルにあるように、ソクラテスは比喩をいくつか挙げながら語っている。その中でも「洞窟の比喩」(本では第7巻にあたる)はこの『国家』という書物の中でも核心にあたるものだと思う。そこだけでも読む価値があると言っても過言ではない。
そもそもこの本が書かれたのは日本が縄文時代の頃だ。日本がそんな時代であった頃、ギリシャの哲人たちは目の前の現実に翻弄されることなく実相、真実のイデアを真剣に論じていたのだ。そのイデアとは一体なんぞや?と本を読んだ私もよく分からない。大体のことは、こうだ。私たちが生活する現実それは実際にあるように思えていてもそれらは幻想でしかない。じゃあ本当に「ある」ものはどこにあるのかというとそれは現実世界から上方へ登っていったところにある。魂だけが登って行けるそこには、善の実相(イデア)がある。「この〈善〉の実相こそはあらゆるものにとって、すべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ、考えが至らなければならぬ。」(101)。
要はこうだ。人々が生活する中では何も確定的なものなんてない。物もお金も名誉も地位も知識も。それらは生活空間の中で様々な思惑や意志によって翻弄され変化し続ける。それは致し方ないことで、我々はそれぞれが個別に考え生きているからである。それら幻想は言語や物質によって「大体こうであろう」「これだからこうだろう」と折り合いをつけていく。そして更にそこに価値づけがなされる。これが幻想を生み出すプロセスだ。幻想は常に変化し続ける。だから実態がないのだ。
そんなものに右往左往しているようではダメで、物事の真実、実相(イデア)まで到達した視線をもたないと、幻想に翻弄されておしまいだし、永遠に物事の本質を捉えることはできない、というのが洞窟の比喩という喩えで語られているのだ。吉本隆明さんの共同幻想と通ずるものがあるし『ハイ・イメージ論』で言われていた高次視線を想起させられる。ともあれ大まかな説明はこれまでとして、次のブログでは洞窟の比喩を私がどれだけ理解して言語化できるか、です。