
「洞窟の比喩とは・・・」ソクラテスは語り始める。それは実に面白く奇妙な比喩であった。洞窟のどん詰まりのところに人が数人洞窟の最奥を正視した状態で座っている。首と身体は前面を見るように紐で固定されている。なので人々は振り返って後ろを見ることができない状態である。そしてそれら座っている人たちの後ろには一対の壁があって、その上には松明の炎が燃えている。その松明の火に照らされるように動物の形をしたもの、人の形をしたものを横切らせる。横切らせるように操作する人が別にいるのだ。映し出されたそのものたちは影絵となり座っている人たちの全面の壁に映し出される。それらの様子を見て「今日は何何がややってきた。機嫌がいいみたいに見える」とか「ほら、今日は俺の言った通りあの人間がやってきた」などと影絵を全世界と認識する彼らはそこに価値観を見出しお互いに批評し合うのだ。いわゆるこれが現世でいうところの社会のありようだとソクラテスは言うのだ。松明の火で投影された影を巡って議論に明け暮れる人々。実態は松明によって映し出された影絵でしかない、その幻影によって右往左往させられる。ある時座っていた1人の人物が紐を解かれ洞窟の外へ出られるようになる。洞窟の外に出てみると目も眩むような明るさが。そう、そこには太陽が燦々と輝きを放ってあったのだ。
要はこの太陽が実相でありイデアなのである。この太陽が照らし出す光によって視覚を得て実際のものを目の当たりにすること。真実はここにあり。とそれを見た人は思い、洞窟の仲間たちにこのことを知らせに走る。明るいところからいきなり洞窟の暗い闇の中に入ると暗闇に慣れるまでにはかなり時間がかかる。イデアを得た人が現実社会(幻想的な社会ともいえる)に向き合うときに受ける違和感、かな?とにかくイデアを得た人は影絵が現実のものでなく松明に照らされた幻想であることを力説する。しかし首を固定された人々は目の前の世界を現実だと主張し続ける。イデアを得た人の話を全く受け入れないのだ。
社会で起こっていることを、社会の中だけで語って終わらせるだけでは何も解決しない。いったん社会の外に出て真実の太陽、イデア(最高善)を得てこそ、真実が見えるようになる。要するにこのイデア(最高善)を得ること、それこそが哲学者になると言うことであり、哲学者が国政を担うべきであるとソクラテスは言っているのである。
いやあ、これアウトプットというより本文の書写しのような気もする。正直に言おう。このイデアと言う概念がいまいちわからない。現世のあらゆる行いは幻想であると言うことはなんとなくわかったが、そのイデアを得て再び現世に戻ってくる感覚というか思想は何なのか?これはずっと宿題だ。最後に、理解が難しいが現実世界に翻弄されている私も含めた人に是非この洞窟の比喩は読んでもらいたい。