プラトン『国家』(上)岩波文庫をアウトプットする

  • 私には、高齢の方々と話をかわすことは歓びなのですよ。なぜなら、そういう方達は、言ってみればやがてはおそらくわれわれも通らなければならない道を先に通られた方々なのですから、その道がどのようなものか、平坦でない険しい道なのか、それとも楽に行ける楽しい道なのかということを、うかがっておかなければと思っていますのでね。とくにあなたからは、それがあなたにどのように思われるかを、ぜひうかがっておきたいのです。あなたはもう、詩人たちの言葉を借りれば、『老いという敷居にさしかかっている』と言われるその齢にまで達しておられるわけですから、それは人生のうちでもつらい時期なのか、それともあなたとしてはそれをどのように報告なさるのか、聞かせていただければありがたいですね(P20)
  • しかし、ソクラテス、どうもこの私には、そういう人たちは、ほんとうの原因でないものを原因だと考えているように思えるのだよ。(P21)
  • それは、ソクラテス、老年ではなくて、人間の性格なのだ。端正で自足することを知る人間でありさえすれば、老年もまたそれほど苦になるものではない。(P22)
  • その中でもいちばん立派な種類のもの、つまり、幸せになろうとする者が、それをそれ自体のためにも、それから生じる故にも、愛さなければならないようなものに属すると思う。(P104)
  • われわれが、(正義)の何たるかを見出して、(正義)はその所有者にとって、その人が正しいと思われようと思われまいと本来得になるものだという結論に達したときにこそ、はじめてわれわれが同意してしかるべき事柄なのではないだろうか(P193)
  • 医者は魂によって身体を治療するのであって(P236)
  • 不正というものを、自分自身の魂の中にある自分自身のものとして認識したのでなく、他人の魂のなかの他人のものとして、それが本来どのように悪いものであるかということを、自分自身の経験ではなく知識を用いて見抜くように、長い間の訓練をつんだ人でなければならないのだ(P237)
  • 歌の様式そのものが新しい場合のことだと考えてそれをほめる者がひょっとしてありはしないかと、守護者として恐れなければならないわけだ。(P272)
  • なぜなら、およそどのような場合にも、国家社会の最も重要な習わしや法にまで影響を与えることなしには、音楽・文芸の諸様式を変え動かすことはできないのだから。(P273)
  • この国家は、<知恵>があり、<勇気>があり、<節制>をたもち、<正義>をそなえていることになる(P282)
  • すぐれた考察ーは、明らかにひとつの知識である。なぜならすぐれた考慮を行うのは無知によるのではなく、知識によるのであるから(P284)
  • してみると、自然本来のあり方に従って建てられた国家は、みずからの最も小さな階層と部分にほかならない指導者・支配者によってこそ、またその最小部分のうちにある知識によってこそ、全体として<知恵>があるということになるわけだ。(P286)
  • 国家が勇敢であるということもやはり、その国家自身のある一部分によるわけだ。なぜなら、国家はその部分のうちにこそ、恐ろしいものとは何でありどのようなものであるかということについて、それを立法者が教育において告げ聞かせたとおりのものとみなす考えを、あらゆる場合を通じて保持しつづけるような力を持っているのだから。(P287)
  • <節制>はそうではない。それは国家の全体に、文字通り絃の全音域に行きわたるように行きわたっていて、最も弱い人々にも最も強い人々にも、またその中間の人々にも、完全調和の音階のもとに同一の歌を歌わせるようにするものなのだ。ここで言う強い人々と弱い人々とを区別する点は、知恵であれ、力であれ、人数の多少であれ、財産であれ、その他これに類する何であれ、君ののぞむままの観点であってよいのだがね。いずれにせよこのようにして、われわれは、まさにこのような合意こそが<節制>にほかならないと、きわめて正当に主張することができるだろうーすなわちそれは、国家の場合であれひとりひとりの個人の場合であれ、素質の劣ったものとすぐれたものの間に、どちらが支配すべきかと言うことについて成立する一致協和なのだ。(P295)
  • そして、自分のことだけをして余計なことに手出しをしないことが正義なのだ(p 298)
  • してみると、どうやら、少なくともこの、国なかでひとりひとりの者が自分のことだけを果たすと言うことがもつ力は、国家の徳への寄与することにかけては、その国の<知恵>や<節制>や<勇気>と匹敵するものということになるわけだ(P299)
  • してみると、友よ、個人もまたそのように、自分の魂のなかに同じそうした種類のものをもち、それらが国会における三種族と同じ状態にあることによって、当然国家の場合と同じ名前で呼ばれてしかるべきことになると、われわれは期待しなければならないだろう。(P304)
  • 真実はといえば、どうやら、<正義>とは、たしかに何かそれに類するものではあるけれども、しかし自分の仕事をするといっても外的な行為にかかわるものではなくて、内的な行為にかかわるものであり、ほんとうの意味での自己自身と自己自身の仕事に関わるものであるようだ。すなわち、自分の内なるそれぞれのものにそれ自身の仕事でないことをするのを許さず、魂の中にある種族に互いに余計な手出しをすることも許さないで、真に自分に固有の事を整え、自分で自分を支配し、秩序づけ、自己自身と親しい友となり、三つあるそれらの部分を、いわばちょうど音階の調和をかたちづくる高音・低音・中音の三つの音のように調和させ、さらに、もしそれらの間に別の何か中間的なものがあればそのすべてを結び合わせ、多くのものであることをやめて節制と調和を堅持した完全な意味での1人の人間になりきってーかくてその上で、もし何かをする必要があれば、はじめて行為に出るということになるのだ。それは金銭の獲得に関することでも、身体の世話に関することでも、あるいはまた何か政治のことでも、私的な取引のことでもよいが、すべてそうしたことを行うにあたっては、今言ったような魂の状態を保全するような、またそれを作りだすのに役立つような行為をこそ、正しく美しい行為と考えてそう呼び、そしてまさにそのような行為を監督指揮する知識のことを知恵と考えてそう呼ぶわけだ。逆に、そのような魂のあり方をいつも解体させるような行為は、不正な行為ということになり、またそのような行為を監督指揮する思わくが、無知だということになる(P328,329)
  • 「では、真の哲学者とは」と彼はたずねた、「どのような人だと言われるのですか?」「真実を観ることを」とぼくは答えた、「愛する人たちだ」(P411)
  • 「そうすると、<あるもの>には<知識>が対応し、他方、<無知>は必然的に<あらぬもの>に対応するのであれば、いま言われた中間的なものに対応するものとしては、<知識>と<無知>との、やはり中間にあるようなものを、求めなければならないのではないかーもしそのようなものがあるとすれば」(P415)

樺沢紫苑さん(精神科医)によるアウトプットの簡単な方法「アンダーラインを引いたもしくはマーカーを引いたところを書き出すまたは打ち出すだけ」というのをそのまんま実践してみた。

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