
- 哲学者たちの自然的素質について、すでにわれわれのあいだで同意済みのこととしておこう。すなわち、彼ら哲学者たちは、生成と消滅によって動揺することなくつねに確固としてあるところの、かの真実性を開示してくれるような学問に対して、つねに積極的な熱情をもつということ(P19)
- 哲学者たるべき魂は、記憶力のよい魂でなければならぬと要求しよう(P23)
- 生来の自然的素質において記憶がよく、ものわかりがよく、度量が大きく、優雅で、真理と正義と勇気と節制とを愛して、それらと同族の者でないかぎり、けっしてじゅうぶんに修めることのできないような仕事なのだ(P25)
- そもそも、人が尊崇の気持ちをもって何ものかと生きるとき、そのものを真似しないでいられると思うかね?(P59)
- すなわち、われわれの任命する最も厳密な意味での守護者たちは、哲学者でなければならぬ、とね(P67)
- 「自分の知らない事柄について、あたかも知っているかのように語るのが正しいことだと、君は思うのかね?」(P76)
- 「ところが、視覚とその対象に関わる機能は、そういうものを別に必要とするということに、思い当たらないかね?」(P80)
- 「君が光と呼んでいるものだ」(P80)
- 「それでは、このように、認識される対象には真理生を提供し、認識する主体には認識機能を提供するものこそが、<善>の実相(イデア)にほかならないのだと、確信してくれたまえ。」
- この太陽こそは、四季と年々の移りゆきをもたらすもの、目に見える世界におけるいっさいを管轄するものであり、また自分たちが地下で見ていたすべてのものに対しても、ある仕方でその原因となっているものなのだ、と(P98-99)
- 「地下にいた当時、彼らはお互いの間で、いろいろと名誉だとか賞賛だとかを与え合っていたものだった」(P99)
- 「太陽のもとから急にやって来て、彼の目は暗黒に満たされるのではないだろうか」(P100)
- そして人々は彼について、あの男は上へ登って行ったために、目をすっかりダメにして帰って来たのだと言い、上へ登っていくなどということは、試みるだけの値打ちさえもない、というのではなかろうか。(P100)
- つまり、視覚をとおして現れる領域というのは、囚人の住まいに比すべきものであり、その住まいの中にある火の光は、太陽の機能に比すべきののであると考えてもらうのだ。そして、上へ登って行って上方の事物を観ることは、魂が<思惟によって知られる世界>へと上昇して行くことであると考えてくれれば、ぼくが言いたいと思っていたことだけは(P101)
- <善>の実相(イデア)がある。いったんこれが見てとられたならば、この<善>の実相こそはあらゆるものにとってすべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ、考えが至らなければならぬ。(P101)
- 公私いずれにおいても思慮ある行いをしようとする者は、この<善>の実相こそを見なければならぬ、ということもね(P102)
- 光から闇へ移されたときに起こる混乱と、闇から光へ移されたときに起こる混乱がそれだ(P103)
- 目を暗闇から光明へ転向させるには、身体の全体といっしょに転向させるのでなければ不可能であったように(P104)
- その最も光り輝くものというのは、われわれの主張では、<善>にほかならぬ(P104)
- 教育とは、まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく、いちばん効果的に達成されるかを考える、向け変えの技術にほかならないということになるだろう。それは、その器官のなかに視力を外から植え付ける技術ではなくて、視力ははじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術なのだ(P105)
- 知の徳だけは、何にもまして、もっと何か神的なものに所属しているように思われる。その神的な器官<知性>は、自分の力をいついかなるときにも決して失うことはないのだけれども、ただ向け変えのいかんによって、有用・有益なものともなるし、逆に無益・有害なものとなるのだ(P105)
- 「すなわちまず、最もすぐれた素質をもつ者たちをして、ぜひとも、われわれが先に最大の学問と呼んだところのものまで到達せしめるように、つまり、先述のような上昇の道を上りつめて<善>を見るように、強制を課するということ。そしてつぎに、彼らがそのように上昇して<善>をじゅうぶんに見たのちは、彼らに対して現在許されているようなことをけっして許さないということ」「そのまま上方にとどまることをだ」「そしてもう一度前の囚人仲間のところへ降りてこようとせず、彼らとともにその苦労と名誉をーそれがつまらぬ者であれ、ましなものであれー分かち合おうとはしないということをだ」(P107)
- 国全体のうちにあまねく幸福を行きわたらせることをこそ、法は工夫するものだということを(P108)
- 慣れてもらわなければならぬ。けだし、慣れさえすれば君たちの目は、そこにいつづけの者たちよりも、何千倍もよく見えることだろう。君たちはそこにある模像のひとつひとつが何であり、何の模像であるかを、識別することができるだろう。何しろ君たちは、美なるもの、正なるもの、善なるものについて、既にその真実をみてとってしまっているのだから。(P109)
- つまり、その国において支配者となるべき人たちが、支配権力を積極的に求めることの最も少ない人間であるような国家、そういう国家こそが、最もよく、内部的な抗争の最も少ない状態で、治るのであり、これと反対の人間を支配者として持った国家は、その反対であるというのが、動かぬ必然なのだ(P110)
- しかるに、支配者の地位につく者は、けっして支配権力を恋こがれるような者であってはならないのだ(P111)
- これは魂を、何か夜を混えたような昼から転向させて、真実の昼へと向け変えることなのであって、それがつまり真実在への上昇ということであり、これこそまさにわれわれが、まことの哲学であると主張するであろうところのものなのだ(P112)
- 哲学する者にとっては、生成界から抜け出して実在に触れなければならないがゆえに、それを学ばなければならないのであって、そうでなければ、思惟の能力あるものとはけっしてなれないからである。(P124)
- と言うのは、ぼくとしては、目に見えない実在に関わるような学問でないかぎり、魂の視線を上に向けさせる学科としてはほかに何も認めることができないからだ(P134)
- 真に実在する速さと遅さが、真実の数とすべての真実の形のうちに相互の関係において運行し、またその運行のうちに内在するものを運ぶところの、その運動のことであって、これらこそは、ただ理性(ロゴス)と思考によってとらえられるだけであり、視覚によってはとらえられないものなのだ。(P135)
- ちょうどそれと同じように、人が哲学的な対話・問答によって、いかなる感覚にも頼ることなく、ただ言論(理)を用いて、まさにそれぞれであるところのものへと前進しようとつとめ、最後にまさに<善>であるところのものそれ自体を、知性的思惟の働きだけによって直接把握するまで退転することがないならば、そのとき人は、思惟される世界(可知界)の究極に至ることになる。(P142)
- つまり影は影でも、太陽と比べればそれ自身が模像的な光によってうつしだされた、模像の影ではもはやなく、ちゃんとした実物の影にー視線を向けること、こういった段階があった。われわれはがこれまで述べて来たいくつかの学術を研究することは、全体として、ちょうどこれに相当するような効果をもっているわけであって、それは、魂のうちなる最もすぐれた部分を導いて、実在するもののうちなるもっともすぐれたものを観ることへと上昇させて行くはたらきをするものなのだ。ちょうど先の場合に、肉体のうちなる最も明確な部分(目)が、目にみえる物体的な世界のうちなる最も輝かしいもの(太陽)をみるところまで、導かれていくのと同じようにね。(P143)
- ソロンは老年になっても多くのことを学ぶことができると言ったけれども、それを信じてはいけないのであって、学ぶことは走ることよりも、もっとだめだろうからね。むしろ大きな苦労、たくさんの苦労はすべて、若者たちにこそふさわしいのだ。(P153)
- しかし魂の場合は、無理に強いられた学習というものは、何ひとつ魂のなかに残りはしないからね(P154)
- そして50歳になったらならば、ここまで身を全うし抜いて、実地の仕事においても知識においても、すべてにわたってあらゆる点で最も優秀であった者たちを、いよいよ最後の目標へと導いていかなければならない。それはつまり、これらの人々をして、魂の眼光を上方に向けさせて、全てのものに光を与えているかのものを、直接しっかりと注視させるということだ。そして彼らがそのようにして<善>そのものを見てとったならば、その<善>を範型<模範>として用いながら、各人が順番に国家と個々人と自分自身とを秩序づける仕事のうちに、残りの生涯を過ごすように強制しなければならない。(P162-163)
- 民主制国家が善と規定するところのものがあって、そのものへのあくことなき欲求こそが、この場合も民主制を崩壊させるのではあるまいか?(P217)
- 個人の家々のなかにまで浸透して行って、ついには動物たちにいたるまで、無政府状態に侵されざるをえないことになるのだ。(P219)
- つまり、国民の魂はすっかり軟らかく敏感になって、ほんのちょっとでも抑圧が課せられると、もう腹を立てて我慢ができないようになるのだ。(P221)
- その自由放任のために、さらに大きく力強いものとなって、民主制を隷属化させることになる。まことに何ごとであれ、あまりに度がすぎるということは、その反動として、反対の方向への大きな変化を引き起こしがちなものだ。(P221)
- 過度の自由は、個人においても国家においても、ただ過度の隷属状態へと変化する以外に道はないもののようだからね(P222)
- 先にも話に出た、あの怠け者で浪費家の連中の種族のことなのだよ。そのうちで最も勇敢な者が指導者となり、それほど勇敢出ない者は手下となるわけだが、われわれはこの者たちを雄蜂にたとえていた。(P222)
- ところで民衆の慣しとして、いつも誰か1人の人間を特別に自分たちの先頭におし立てて、その人間を養い育てて大きく成長させるのではないかね(P226)
- 経験と、思慮と、言論(理)によってではないだろうか(P270)
- 経験という条件に関しては」と僕は言った、「これらの人々のうちでは、知を愛する人が最もすぐれた判定者であるということになる」(P272)
- しかるに、、言論(理)は、他の誰よりもとくに、知を愛する人がもつ道具なのだ(P272)
- 問題の3種類の快楽のうちで、われわれがそれによって物を学ぶところの魂の部分がもつ快楽こそが、最も快いものであり、そしてわれわれ人間のうちでは、まさにその部分が内において支配しているような人間の生活こそが、最も快い生き方である(P273)
- どうやら利得を愛する人間の快楽が、最下位となるようだね(P274)
- したがって、思慮(知)と徳に縁のない者たち、にぎやかな宴やそれに類する享楽につねになじんでいる者たち、彼らはどうやら(下)へと運ばれてはまたふたたび(中)のところまではこばれるというようにして、生涯を通じてそのあたりをさまよいつづけるもののようだ。彼らはけっして、その領域を超え出て真実の(上)の方を仰ぎ見たこともなければ、実際にそこまで運びあげられたこともなく、また真の存在によってほんとうに満たされたこともなく、確実で純粋な快楽を味わったこともない。むしろ家畜たちがするように、いつも目を下に向けて地面へ、食卓へとかがみこみ、餌をあさったり交尾したりしながら身を肥やしているのだ。そしてそういったものを他人よりも少しでも多くかち取ろうとして、鉄の角や蹄で蹴り合い突き合いしては、いつまでも満たされることのない欲望のために、互いに殺しあうのだ。ほかでもない、いくら満たそうとしても、彼らはほんとうに存在するものによって自分を満たすのではないし、また自己の内なる真に存在する部分、取り入れたものをしっかりともちこたえることのできる部分を満たすのでもないのだから(P284)
- そして、法と秩序から最も遠く隔たっているものこそが、道理から最も遠く隔たっているのではないかね(P286)
- 完全に不正な人間でありながら、世間の評判では正しい人であると思われている者にとっては、不正をはたらくことが有利である、と。(P290)
- よき友よ、一般に認められている美しい事柄というのも、このような理由によって区別されてきたと言えるのではなかろうか?すなわち、美しい事柄とは、われわれの本性の獣的な部分を内なる人間の下にーおそらくはむしろ神的なものの下に、というべきだろうがー服従させるような事柄であり、醜い事柄とは、穏やかな部分を野獣的な部分の配下に従属させるような事柄ではないだろうか?(P294)
- 法律というものも、国民のすべての味方として、そのような意図を持っているのだ。子供たちを支配することもまた同じ。すなわち、われわれは同じこの意図にこそ、子供たちの内部にーちょうど国家の場合と同じようにーひとつの国制をうち立てるまでは、彼らを自由に放任することをしない。そして彼らの内なる最善の部分をわれわれの内なる最善の部分によって養い育てることにより、同じような守護者と支配者を代わりに子供のなかに確立してやって、そのうえではじめて、放免して自由にしてやるのだ(P297)
- 他方、人に気づかれて懲らしめを受ける者の場合は、その人の内なる獣的な部分が眠らされて穏やかになり、おとなしい部分が自由に解放される。そして魂の全体は、本来の最もすぐれたあり方に立ち返り、知恵に支えられた節制と正義を獲得することによって、健康に支えられた強さと美しさを獲得した身体よりも、もっと価値のある状態を勝ち取るのではないかーちょうど魂が身体よりも価値がある、それだけの差に応じてね(P298)
- 彼はつねに、魂の内なる協和音をもたらすためにこそ、身体の内なる調和をはかるのが見られるだろう(P298)
- 自己の内なる国制に目を向けて、みずからの国制のなかにあるものを、財産の多寡によって、いささかでもかき乱すことのないように気をつけながら、できる限りこのような原則にもとづいて舵を取りつつ、財産をふやしたり消費したりすることだろう(P299)
- さらに、さまざまの名誉についても、彼は同じ方向に目を向けながら、自分をいっそうすぐれた人間にしてくれるだろうと考える名誉であれば、すすんでこれに与り、享受するだろうが、しかし自分の内に確立されているあり方を解体させるだろうと考える名誉は、私的にも公的にも、これを避けることだろう。(P299)
- しかしながら、ひとりの人間が真理よりも尊重されるようなことがあってはならない(P303)
- ぶつかって痛手を受けたあとで子供のように打ったところを抑えながら、いたずらに泣き叫ぶことに時を過ごすことなく、傷んだところはこれを治療し、倒れたものはこれを立て直し、医術の力で嘆きを消し去ることへと一刻も早く向かうように、つねづね魂を習慣つけることだ(P330)
- また、魂の同じく低劣な部分と関係をもち、最善の部分とは関係をもたないという点においても、彼は画家とそっくりだからだ。(P331)
- 魂の愚かな部分、どちらがより大きいか小さいかも識別できずに、同じものをときには大と思いときには小と思うような部分の機嫌をとり、自分は真理から遥かに遠く離れて、影絵のような見かけの影像を作り出すことによってね(P302)
- すなわち、それはそうした衝動に水をやって育てるのだー本来はひからびさせなければならぬのに。そしてそれらをわれわれをわれわれの内なる支配者としてしまうのだーわれわれが劣ったみじめな人間とならずに、すぐれた幸福な人間となるためには、本来それらは支配される側におかれなければならぬのに(P305)
- 詩の作品としては、神々への頌歌とすぐれた人々への讃歌だけしか、国へ受け入れてはならないということだ。(P336)
- 快く装われた詩神(ムウサ)を受け入れるならば、君の国には、法と、つねに最前であると公に認められた道理とに代わって、快楽と苦痛が王として君臨することになるだろう(P336)
7巻まで。マーカーでラインを引いたところを書き出してみた。