
いつもの通り簡単なアウトプットを行う。
要約。時代と場所、その時代の構成員と共同の幻想が生み出したある一つの流れがあった。ピューリタリズム。禁欲的生活を強いながらも得た利益を神への恩恵としさらに資本投資していく流れの中で資本主義の流れが醸成された。現代では当たり前のように享受している資本主義社会。それは西洋で生まれるべくして生まれたのであった。同時代には世界各地に商業が発達していたが、資本主義は生まれなかった。それはそういう理由によるものだった。
- 一方の非現世的、禁欲で信仰に熱心であるということと、他方の資本主義的営利生活に携わるということと、この両者はけっして対立するものなどではなくて、むしろ逆に、相互に内面的な親和関係にあると考えるべきではないか、と。(P29)
- それは、練達な資本主義的事業感覚と、全生涯を貫き支配する、この上もなく強烈な形態の信仰とが、同一の個人ないし集団のうちに同時に存在する場合で、しかも、このような事実がけっして孤立したものではなくて、むしろ歴史上重要な役割を演じたプロテスタントの教会や信団、それら全てにわたって正しく顕著な特徴となっているのだ。(P30)
- 歴史上キリスト教の種々異なった現れとして示されて来たところの、あの偉大な一連の宗教的諸思想のもつ固有な特徴とそれら相互の差異という問題の究明に、あえて立ち入って見なければならない。(P37)
- 根本的な相違点は、宗教的根底をもつ倫理が、それによって生まれた生活態度に対して一定の、しかもその信仰が生命を保っている間はきわめて強力な、心理的刺激(経済的な性格を持たない)を与えるのに反して、アルベルティに見られるような単なる処世術はそうした力を持っていないということなのだ。(P60-61)
- むしろ新たな精神、すなわち、「近代資本主義の精神」の侵入だった。近代資本主義の拡大の原動力は何かという問題は、まずもって資本主義的に利用しうる貨幣が何処から来たかではなく、むしろ何にもまして資本主義精神の展開ということなのである。(P77)
- むしろ厳格な生活のしつけのもとで成長し、厳密に市民的な物の見方と「原則」を身につけて熟慮と断行を兼ね備え、とりわけ醒めた目でまたたゆみなく綿密に、また徹底的に物事に打ち込んでいくような人々だったのだ。(P78)
- 修道士の倫理が、世俗内的禁欲の特徴をもつプロテスタント諸派の先駆者だったことについては、後段で立ち入って説明する。(P89)
- カトリック教徒の見解とは対照的に、世俗内の職業として編制された労働に対して道徳的重視の度合いや宗教的褒賞を著しく強めたということだった。そのことの現れである「天職」思想がさらにどのように展開していくかは、その後のプロテスタント諸教会のそれぞれのうちに成育していった信仰の一層立ち入った特質に依存することになる。(P117)
- 種々な形のプロテスタンティズムのうち、その生活実践と宗教的出発点との関連がルッター派の場合よりも一層確かめやすいものをとって、それを観察する方がよいように思われる。(P129)
- 宗教上の諸運動の力がここではじめてーそれのみとは言えないが、何よりもまず、それがー今日われわれが感じているあの差異を生み出したのだ。(P132)
- われわれのいう「資本主義精神」の喚起を何らかの意味で生涯の目的としていたとわれわれが予期しているなどと、決して解されてはならない。彼らのうちの誰かが、世俗的財貨の追求を自己目的とし、それに倫理的価値を認めた、などというふうにはとうてい考え難い。(P133)
- 倫理的な改革綱領などと言ったものは決して中心問題となっていなかった。彼らは決して、「倫理的文化」を目標とする団体の創設者でもなかったし、また人道主義的な社会改革運動やそうした文化理想の代表者でもなかった。彼らの生涯と事業の中心は魂の救済であり、それ以外にはなかった。(中略)それゆえわれわれは、宗教改革の文化的影響の多くがーわれわれの特殊な観点からはおそらくその大部分がと言ってよかろうー改革者たちの事業から生じた、予期されない、いや全然意図されなかった結果であり、しばしば、彼ら自身の念頭にあったものとは遥かにかけ離れた、あるいはむしろ正反対のものだった。(P133-134)
- ただ、問題の「精神」の質的形成と全世界にわたる量的拡大の上に宗教の影響が果たして、また、どの程度に与って力があったかということ、および資本主義を基盤とする文化のどのような具体的な側面がそうした宗教の影響に帰着するのかということだけなのだ。(P135-136)
- つまり、宗教的信仰および宗教生活の実践のうちから生み出されて、個々人の生活態度に方向と基礎をあたえるような心理的起動力をば明らかにすることなのだからだ。(P141)
- 何よりもまず、個々人のかつてみない内面的孤独化の感情だった。(P156)
- このこと、すなわち教会や聖礼典による救済を完全に破棄したということ(ルッタートゥムではこれはまだ十分に徹底されていない)こそが、カトリシズムと比較して、無条件に異なる決定的な点だ。(P157)
- ところで、神がキリスト者に欲し給うのは彼らの社会的な仕事である。それは神は人間生活の社会的構成が神の誡めに適い、その目的に合致するように編制されていることを欲し給うからなのだ。カルヴァン派信徒が現世においておこなう社会的な労働は、ひたすら神の栄光増すためのものだ。だから現世で人々全体の生活のために役立とうとする職業労働もまたこのような性格を持つことになる。(P166)
- というのは、宗教的達人が自分の救われていることを確信しうるかたちは、自分を神の力の容器と感じるか、あるいはその道具と感じるか、その何かである。前者のばあいには彼の宗教生活は神秘的な感情の培養に傾き、後者のばあいには禁欲的な行為に傾く。(P183)
- しかも、それはカトリックのように個々の功績を徐々に積み上げることによってではありえず、どんな時にも選ばれているか、捨てられているか、という二者択一のまえに立つ組織的な自己審査によって造り出すのだ。こうして、われわれは、本書の考察にとってきわめて重要な一つの点に到達することになった。(P185)
- ところで、自然の地位を打ち越えると考えられるものは、不断の反省によって導かれる生活以外にはない。(P197)
- こうして生活の聖化は、ほとんど事業経営という性格さえもつものとなりえた。このようにカルヴィニズムが、ルッター派とはちがって、倫理的な生活態度に押し付けたその方法意識の帰結だったのだ。カルヴィニズムの影響を正しく理解するためには、そうした方法意識こそが人々の生活に決定的な影響をもたらしたのだという事実を、たえず念頭においていなければならない。(P214)
- 純粋に功利主義的な行為尊重に早くも堕落することのなかったのは、この教説の壮大な一貫性によるものだった。事実、そうした功利主義的な行為尊重などによっては、非合理的・観念的な目的のためにあれほどまでに比類のない犠牲をはらうことなど不可能だったろう。しかもこの教説はきわめて天才的な形で、無条件に妥当する規範への信仰と絶対的決定論および超感覚的な神の徹底的超越性を結びつけたのであって、このことはまた、穏健な教説が感情に対して一層寛容で、かつ神にも道徳律を課したのに比較するとー原理的にはーはるかに「近代的」なものだった。(P217)
- 倫理的生活のそうした変革はまさしく禁欲的プロテスタンティズムの産物なのであって、そのことこそがわれわれの研究にとって重要となるのだ。(P218)
- つまり、カルヴィニズムのものすごい教説に具わっていたような、あの不断の自己審査や一般に自己の生活の計画的な規制への推進力は生み出すことはできなかった。(P218)
- カルヴィニズムの予定説は、そうしたさまざまな可能条件のうちの一つにすぎなかった。しかし、すでにわれわれが確認しえたように、予定説は他に比類のないほど首尾一貫したものであるばかりでなく、きわめて卓越した心理的影響をもつものだった。(P219)
- これは彼ら特徴の一つだーが、神学者たちの影響下にある教会には強い不信感をいだき、俗世から離れた「敬虔の実践」の信奉者だけの「集会」をつくりはじめた。彼らは聖徒の見えざる教会を地上に曳きおろして見ゆるものにしようとしたのであって、信団の形成という帰結は避けながらも、この集会という共同体の内部に止まって、俗世の勢力とは無縁な、全ての点で神の意志に適った生活を送ろうとし、またそれによって、日常生活の外面的な表れにおいても、自己の再生を確信しつづけたいと考えた。(P225)
- 禁欲の強化によって、地上にありながら、神との交わりの悦びを味わうことを願った。(P225)
- 現世の徹底的な呪術からの解放は、内面的に、世俗内的禁欲に向かう以外、他の道を許さなかったのだ。そしてまた、そこから、政治権力やその所為には関係を持つまいとする諸教団にあっては、外面的にも、そうした禁欲的諸徳性が職業労働の内部へ浸透するという結果を生み出したのだった。(P279)
- 一切の貴族主義的な生活様式に対する頑強な敵対的態度だった。(P281)
- 洗礼派的な生活態度のまじめで良心的な方法的性格は、一切をあげて、非政治的な職業生活の方向へと追いやられていくことになったのだ。ところで、そのさい、洗礼派の救済論職業生活における彼らの態度に一つの顕著な特徴をつくり出した。しかもその特徴は、資本主義精神の重要な諸側面の展開に大きな意味をもったのであって、後段でやや立ち入って論究するはずである。(P281)
- honesty is best policy <正直は最良の商略>というふうに定式化されるようになる、あの独自な形態が、すでに17世期の人々の目にも、資本主義「倫理」の需要原則の実践的確証だと映じていたことや、先に引用したフランクリンの小冊子はそれの古典的な文献にほかならぬと言うことが、分かってくるはずだ。(P281)
- さしあたって、古プロテスタント諸教会の客観的・社会的な諸制度とそれの倫理的影響、特にきわめて重要な教会規律から出発せずに、むしろ禁欲的宗教意識の個々人による主観的獲得が生活態度のうえに特徴的におよぼした作用から出発したのだった。(P284)
- 国家の重商主義的統制が産業を育成することはできても、資本主義「精神」を少なくとも自分だけでは育てられなかった(P285)
- 教会の統制は特定の外面的行動を強制しはしたが、往々にして、方法的生活への主観的推進力を弱めることになったのだ。(P285)
- いずれにしても、洗礼派運動がどの教会においても原則として、「教会」(キルヘ)でなく、「信団」(ゼクテ)を生んだことは、この禁欲の度合いを強めるのに役立った。(P285)
- いまやわれわれは、この理念が営利生活に及ぼした影響を究明しなければならない(P286)
- 宗教的要求にもとづく聖徒たちの、「自然の」ままの生活とは異なった特別の生活はーこれが決定的な点なのだがーもはや世俗の外の修道院ではなくて、世俗とその秩序のただなかで行われることになった。このような、来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作り出したものだったのだ。(P287)
- 道徳的に真に排斥すべきであるのは、とりわけその所有のうえに休息することで、富の享楽によって怠惰や肉の欲、なかんずく「清潔な」生活への努力から離れるような結果がもたらされることなのだ。(P292)
- 明白に啓示された神の意志によれば、神の栄光を増すために役立つのは、怠惰や享楽ではなくて、行為だけ。したがって時間の浪費が、中でも第一の、原理的にもっとも重い罪となる。(P293)
- 時間がかぎりなく貴いと言うのは、その失われた時間だけ、神の栄光のために役立つ労働の機会が奪いとられたことになるからだ。(P293)
- 財産のある者も労働せずに食ってはならない。なぜなら、自分の必要を充すために労働することはないとしても、貧者と同様に従わねばならぬ神の誡命が存在するからなのだ。(P306)
- 神の栄光のために働けとの個々人に対する誡命だったのだ。この一見些細な相違がもたらした心理的結果は広汎なものだったし、また、それは、すでにスコラ学も熟知していた経済秩序の摂理的解釈のその後における発展にも関係をもつことになった。(P306)
- 職業の特化は、労働する者の熟練を可能にするため、労働の量的ならびに質的向上をもたらし、したがって公共の福祉に貢献することになるのだが、そのばあい、公共の福祉はできるかぎり多数の人々の福祉ということに同義されている。(P308)
- 「天職である職業をもたない者」の生活には、すでに見たように、世俗的禁欲が要求する組織的・方法的な性格がまさしく欠けている。(P309)
- 合理的な職業労働こそが、まさしく神の求め給うものなのだ。(P309)
- いくつもの職業を兼ね営んで良いかとの問いにはーそれが公共の福祉ないし自分自身の福祉に役立ち、他の誰をも害せず、兼営する職業のどれにも不誠実にならないかぎり、無条件に肯定的な答えがあたえられた。(P309)
- 職業の変更さえも決してそれ自身排斥すべきものとは考えられていなかった。(P309)
- ユダヤ教は政治あるいは投機を指向する「冒険商人」的資本主義の側に立つものであって、そのエートスは、一言にしていえば、賎民(パーリア)的資本主義のそれだったのに対して、ピュウリタニズムの担うエートスは、合理的・市民的な経営と、労働の合理的組織のそれだった。*エートスとは:倫理(P320)
- 人間は委託された財産に対して義務を負っており、管理する僕、いや、まさしく「営利機械」として財産に奉仕するものとならねばならぬという思想は、生活の上に冷やかな圧力をもってのしかかっている。財産が大きければ大きいほどーもし禁欲的な生活態度がこの試練に堪えるならばー神の栄光のためにそれをどこまでも維持し、不断の労働によって増加しなければならぬという責任感もますます重きを加える。(P339)
- この禁欲は心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放った。(P342)
- 禁欲は有産者に対して決して苦行を強いようとしたのではなく、必要な、実践上有用なものごとに所有物を使用することを求めたのだ。(P342)
- 禁欲は旧約聖書と同様、また「善き行為」の倫理的評価からの類推でもって、富を目的として追求することを邪悪の極致としながらも、<天職である>職業労働の結果として富を獲得することは神の恩恵だと考えられたからだ。(P344)
- 禁欲的節約強制による資本形成がそれだ。(P345)
- 近代資本主義の精神の、いやそれのみでなく、近代文化の本質的構成要素の一つというべき、天職理念を土台とした合理的生活態度はーこの論稿はこのことを証明しよとしてきたのだが、ーキリスト教的禁欲の精神から生まれでたのだった。(P364)
- ピュウリタンは天職人たらんと欲したーわれわれは天職人たらざるをえない。というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機会的生産の技術的・経済的条件に結び付けられた近代経済秩序の、あの強力な秩序界(コスモス)を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。そして、この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人ー直接経済的営利にたずさわる人々だけではくーの生活スタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定し続けるだろう。(P365)