『パイドロス』プラトン著 藤沢令夫訳(岩波文庫)を途中まで(〜P74)アウトプットしてみる

いつもの通りマーカーで線を引いたところを書き出してみる。個人的には馭者と2頭の馬の話がわかりやすく面白い。でも理解には程遠い。丁寧に読んでいこう。そして適宜アウトプットして焼き付ける。咀嚼する。理解につなげる。

  • ぼくは、あのデルポイの社の銘が命じている、われみずから知るということがいまだにできていないでいる。(16)
  • その一つは、生まれながらにして具わっている快楽への欲望、もう一つは、最善のものを目ざす後天的な分別の心である。(35)
  • 分別の心がわれわれを理性の声によって最善のもののほうへとみちびいて、勝利を得るときには、この勝利に「節制」という名があたえられ、これに対して、欲望がわれわれを盲目的に快楽のほうへと惹きよせて、われわれの中において支配権をにぎるときは、この支配に「放縦」という名があたえられている。(36)
  • 盲目的な欲望が、正しいものへ向かって進む分別の心にうち勝って、美の快楽へとみちびかれ、それがさらに自分と同族のさまざまの欲望にたすけられて、肉体の美しさを目ざし、指導権をにぎりつつ勝利を得ることによって、勢いさかんに(エローメノース)強められる(ローステイサ)とき、この欲望は、まさにこの力(ローメー)という言葉から名前をとって、恋(エロース)と呼ばれるにいたった、と。
  • 実際には、われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである。むろんその狂気とは、神から授かって与えられる狂気でなければならないけれども。(52)
  • すなわち、この恋という狂気こそは、まさにこよなき幸いのために神々から授けられるということだ。(55)
  • さて、自己自身によって動かされるものは不死なるものであるということが、すっかり明らかになったいま、ひとは、この自己自身によって動かされるということこそまさに、魂のもつ本来のあり方であり、その本質を喝破したものだと言うことに、なんのためらいも感じないであろう。なぜならば、すべて外から動かされる物体は、魂のない無生物であり、内から自己自身の力で動くものは、魂を持っている生物なのであって、この事実は、魂の本性がちょうどこのようなものであることを意味するからである。(57)
  • 魂の似すがたを、翼を持った一組の馬と、その手綱をとる翼を持った馭者とが、一体になってはたらく力であるというふうに、思いうかべよう。(58)
  • 翼というものが本来もっている機能は、重きものを、はるかなる高み、神々の種族の棲まうかたへと、翔け上がらせ、連れて行くことにあり、肉体にまつわる数々のものの中でも、翼こそは最も、神にゆかりのある性質を分けもっている。(59)
  • 一めぐりする道すがら、魂が観得するものは、<正義>そのものであり、<節制>であり、<知識>である。(62)
  • これらの魂たちはみな、はなはだしい労苦に疲れはて、真実在の観照によって浄められないままに、そこを立ち去って行く。立ち去ってからのち、彼らは思惑(ドクサ)を持って身を養う糧とする。(63)
  • ただし、誠心誠意、知を愛し求めた人の魂、あるいは、知を愛するこころと美しい人を恋する想いとを一つにした熱情の中に、生を送った者の魂だけは例外である。(65)
  • すなわち、われわれが話したように、人間の魂は、どの魂でも、生まれながらにして、真実在を観てきている。もし観たことがなければ、この人間とういう生物の中には、やって来なかったであろう。しかしながら、この世のものを手がかりとして、かの世界なる真実在を想起するということは、かならずしも、すべての魂にとって容易なわけではない。(67)
  • 美は、もろもろの真実在とともにかの世界にあるとき、燦然とかがやいていたし、また、われわれがこの世界にやって来てからも、われわれは、美を、われわれの持っている最も鮮明な知覚を通じて、最も鮮明にかがやいている姿のままに、とらえることになった。(69)

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