
いつもの通り簡単なアウトプットを。マーカーで線を引いたところを書き出してみる
- いずれにせよ、プラトンの数多くの対話篇のなかで、このようなかたちで、このように感情をこめて「自然」が語られたことは、ほかにないのである。
- ポレマルコス
- 『国家』第一巻の情景によってわれわれになじみぶかい人物
- 人間を動かす二つの力として、「生まれながらにそなわる快楽への欲望」と「最善のものをのぞむ分別の心」とがあることが示され、そして「恋」とは、前者が後者にうちかった状態ーすなわち「放縦」ーの一種であると定義される
- 「後天的な分別の心(言語はドクサ)」が「先天的な快楽への欲望」を押さえている状態と規定された「節制」は、その逆の状態としての「放縦」にしかすぎぬような「恋」とくらべるならば、正当に高く評価されてしかるべきことも事実である。
- 恋(エロース)とは、この天外の世界への道行きにあたって、何度目かの機会に悪いほうの馬にわずらわされて真実性を見そこなった魂が、そのために翼を傷つけられ、地上に落ちて人間の肉体に宿るようになったのち、この世の生を送る道すがら、美しい人に出会って、かつて観た真実在としての美のイデアを想起し、それとともに、ひさしく涸渇していた翼の芽ばえをうながされることである。
- 想起説と三部分説
- 「学知(マテーシス)とは想起(アナムーネシス)にほかならない」
- 美のイデアの想起
- 人間の魂の機能を、ものを学び知る働きとしての「知的部分」と、これらの制御に反抗して肉体的欲望の対象へ向かおうとする「欲望的部分」と、両者の間にあって全般的に知的部分をたすけるところの、怒りに代表される「激情部分」とに区分する考えである。
- 馭者がこの「知的部分」をあらわし、善い馬と悪い馬とがそれぞれ、「激情的部分」と「欲望的部分」に相当すること
- 人間の「欲望」とは、かならずしも肉的的快楽への欲望にかぎられるものではなく、魂の三部分がいずれもそれぞれに固有の欲望と快楽をもち、そしてそのなかでも、「知的部分」のもつ真実在希求の欲望こそが、人間の自然本来の(先天的な)欲望とみなされるからである。
- 人間が天上的なイデアに対していだく、やみがたい郷愁、それはほんの少数の人にしか全面的に発現することはないけれども、しかし魂が肉体と結びつく以前に淵源するがゆえに、ふつう「本能」の名で呼ばれているところの、肉体に由来するあらゆる欲望よりも深い。
- 美は理くつなしに一挙に鮮明な知覚像によってわれわれにうったえ、最も容易にわれわれを真実在の入口にまでみちびく。
- 美はさまざまの思いがけない相貌をあらわし、その窮極にいて、はじめは容易にわれわれに働きかけなかった「善」や「正義」などと互いに結びつき連関し合いながら、壮大な「真実在の世界」をなしていることが知られるであろう。
- 美の流れを受けいれて翼の芽ばえをうながされた魂を、この究極に向かって駆り立て、真実在のすべてを全体として想起しようとする努力の源となるもの、それが哲学のエロースである。
- 「知を求めるこころと美しい人を恋する想いとを、一つにした激情の中に生を送った者の魂」なのである。
- 弁論術は最後的には、真実の追求を仕事とする哲学に依存しなければならぬ
- 「恋」という主題が最後の物語まで来て打ち出すのが、イデア的な真実在を完全に想起しようとする欲求として語られる、哲学(愛知)ということである
- 「まさしくこのゆえに、ひとり知を愛し求める哲人の精神のみが翼を持つ云々」
- 「知を充分に愛し求める(哲学を充分に修める)のでなければほんとうの言論の能力は得られない」
- ディアレクティケー
- 「人間がものを知る働きは、人呼んで形相(エイドス)というものに則して行われなければならない。すなわち、雑多な感覚から出発して、純粋思考の働きにより総括された単一なものへと進みゆくことによって、行われなければならない」
- 弁論術が哲学に依存しなければならぬということは、具体的には、このようなディアレクティケーに従わなければならぬということであった。
- 真剣な熱意による言葉の使用とは、「ふさわしい魂を相手に得て、ディアレクティケーを用いながら、相手の魂の中に言葉を知識とともに蒔いて植えつけるときのこと」