『パイドロス』プラトン著 藤沢令夫訳(岩波文庫)を途中まで(P75〜最後まで)アウトプットしてみる

いつもの通りマーカーで線を引いたところを書き出してみる。ソクラテスの最後の言葉「では、行こうではないか」にグッときた。さて始めよう。

  • そもそも弁論術とは、これを全体としてみるならば、言論による一種の魂の誘導であるといえるのではないだろうか。(96)
  • してみると、君、言論の技術というけれども、もしひとが真実を知らずに、相手がどう考えるかということのほうばかり追求したとするならば、どうやらその技術なるものは、何か笑止千万なもの、そして技術としての資格がないものとなるようだね。(100)
  • 話というものは、すべてどのような話でも、ちょうど一つの生きもののように、それ自身で独立に自分の一つの身体を持ったものとして組み立てられていなければならない。したがって、頭が欠けていてもいけないし、足が欠けていてもいけない。ちゃんと真ん中も端もあって、それらがお互いどうし、また全体との関係において、ぴったりと適合してかかれていなければならないのだ。(106)
  • そのひとつは、多様にちらばっているものを総観して、これをただ一つの本質的な相へとまとめること。(110)
  • ディアレクティケー(111)
  • つまり、医術とは、身体に薬と栄養とをあたえて健康と体力をつくる仕事であり、弁論術とは、魂に言論と、法にかなった訓育とをあたえて、相手の中にこちらがのぞむような確信と徳性とを授ける仕事であるが、もし君が、こういった仕事にあたって、たんに熟練や経験だけに頼らずに、一つの技術によって事を行おうとするならば、医者の場合には身体の本性を、弁論術の場合には魂の本性を、分析しなければならないのだ。(121)
  • まず、第一、ぼくたちがあるものに関して、自分でも技術を身につけ、また他人を技術家に仕立てるだけの能力をもちたいとのぞむのなら、技術を向けるべきその対象が、単一なものか、それとも多種類のものかをしらべること、つぎに、もしその対象が単一のものなら、そのものがもっている機能をしらべてみること。すなわち、それは本来、能動的には何に対してどのような作用をあたえ、受動的には何からどのような作用を受けとるような性質のものであるかを、しらべるのである。またもし、その対象が多種類のものならば、その種類を数え上げ、しかるのち、そのひとつひとつの種類について、単一な種類の場合にやったのと同じことを、つまり、それが本来何によってどのような作用をあたえ、あるいは何からどのような作用を受けるような性質のものかを、見なければならない。(122)
  • その対象とは何かといえば、魂にほかならないであろう。(123)
  • そもそも言論というものがもっている機能は、魂を説得によって導くことにあるのだから、弁論術を身につけようとする者は、魂にどれだけの種類があるかを、かならず知らなければならない。(125)
  • ひとは、自分の聴衆となるべき人々のさまざまの性質を数え上げて分類すること、それから、事物を種類ごとに分割するとともに、個々のひとつひとつのものについて、これをただ一つの本質的な相によって包括する能力をやしなうこと、これだけのことをしないかぎりは、話すことに関して人間に可能なかぎりの技術を身につけるということは、けっしてできないだろう。(131)
  • ですから、まわり道が長いものであっても、驚いてはいけません。大きな目的を目ざせばこそ、遠まわりもしなければならないのであって、あなたがお考えになっているようなわけのものではないのですから。(131)
  • しかし、ひとりがりっぱな事柄をやってみようと試みるのならば、結果としてどのようなことを経験することになろうとも、その経験を身に受けることもまた、その人にとってりっぱなことなのだ。(132)
  • あなたの言われるのは、ものを知っている人が語る、生命をもち、魂をもった言葉のことですね。書かれた言葉は、これの影であると言ってしかるべきなのでしょうか。(137)
  • 慰みのためにこそそうするのだろうと思われる。それは「もの忘るるよわいの至りしとき」にそなえて、自分自身のために、また、同じ足跡を追って探究の道を進むすべての人のために、覚え書きをたくわえるということなのだ。(137)
  • ひとがふさわしい魂を相手に得て、ディアレクティケーの技術を用いながら、その魂の中に言葉を知識とともにまいて植えつけるときのことだ。その言葉というのは、自分自身のみならず、これを植えつけた人をもたすけるだけの力をもった言葉であり、また、実を結ばぬままに枯れてしまうことなく、一つの種子を含んでいて、その種子からは、また新たなる言葉が新たなる心の中に生まれ、かくてつねにそのいのちを不滅のままに保つことができるのだ。そして、このような言葉を身につけている人は、人間の身に可能なかぎりの最大の幸福を、この言葉の力によってかちうるのである。(140)
  • そしてそのような言葉が、まず第一に、自分自身の中に見出され内在する場合、つぎに、何かそれの子どもとも兄弟ともいえるような言葉が、その血筋にそむかぬ仕方でほかの人々の魂の中に生まれた場合、こういう言葉をこそ、自分の生み出した正嫡の子と呼ぶべきであると考えて、それ以外の言葉にかかずらうのを止める人、(143)
  • もしそういったものを書くに際して、真実がいかにあるかを知り、自分の書いた事柄について訊問されたときに、書いたものをたすけてやることができ、そして、書かれたものは価値の少ないものだということを、みずからが実際に語る言葉そのものによって証明するだけの力をもっているならば、そういう人は、それらの書き物からつけられる肩書きで呼ばれてはならない。彼の呼び名は、真剣な目的をもって当たる仕事からこそつけられるべきである、と。(144)
  • 「愛知者」(哲学者)(144)
  • では、行こうではないか。(147)

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