
やばいなあ〜
今日はまったくもってだめだ
全否定、全否定
久し振りに死ぬことを考えてしまった
気圧の低下はない
過去の自分のしでかした数々のことが頭の中をよぎってどうしようもなくつらい
今日食べたことも全てこうかいしてしまっている
何でだろう?全世界の中で唯一、何もない
人間で 生き恥をさらしている
全てが恥ずかしい
2019年4月13日の手帳メモより
2019年の初め頃はこんなことを書くことが繰り返された。これはこの時だけでない、年間通してそう思うことが結構な回数あった。人間は体力も精神力も漲(みなぎ)って活力があるときは過去にしでかした失敗や弱みを思い出さないが、一旦それらが弱り始めるとそれまで力で蓋をして押さえつけていたそれらがニョキニョキと顔を出して自分自身を責めてくる(これはジャンジャック・ルソーが『告白』の中で書いてた)。2019年の4月13日はまさにそんな時であり、過去にしでかした失敗や悪行が弱っている僕を責め立てていた。全否定、全否定してたんだなあ、と今は距離をおいてそう思える。そんなに自分を責めなくても良いのに、と。ましてや死ぬなんて、ねえ。。。
確かにタンクローリー に乗ることを選んで見事失敗して、また福祉の世界に出戻ってきてダメダメな人生なんだけど、でも得るものをあったじゃないか。福祉の世界にそのまま居続けたら見えなかった社会の層というか地平を見て知ることができた。その他にも「書く」週間がついてそれがブログにも発展したじゃないか、などなど。あげればもういくつかある。
食べたことを後悔しているのは何だろう。食べたこと、食べ物を体に取り込むこと、得ること、自分自身の活力になるものを取り込むことまでも否定しているのは、結構重症だったのだなあ、と思う。
生きることが恥ずかしい。恥ずかしいということは僕を見て判断する人がいることを自覚てしているという裏返しということである。じゃあ誰が?誰が僕を見て判断しているのだろうか?社会?社会というと広すぎてぼやけてくる。誰だ?家族?家族はそんな目で見ないだろうし、会社の人たち?会社の人たちは僕の過去のことなんて知らないし。これも誰かと突き詰めていけば漠然としてきてよくわからなくなる。結論、よくわからないものに対して恥ずかしがっているのは意味があまりない、ということだ。
さて、2020年になって僕は4月をどう生きているのだろうか?相も変わらず自分を責めているのだろうか?うーん。ときどきはまだ責めることもあるが、かなり減ってきているように思う。でも気圧が下がるとダメだな。これは変わっていない。