
昨日アップした解説のマーカー部分を追加でアウトプットしてみる。
その批判は、簡単にいえば、世の弁論術は技術の名に値するものではなく、経験や熟練にすぎないのであり、そしてそれが仕事にしていることは、迎合ないしはへつらいである、ということである。(318)
その一つは、一言でいって、理論の裏づけがあるか否かということ、つまり技術のほうは、取り扱う対象の本性について知識をもっており、そしてそれが行う処置については理論的な説明を与えることのできるものであるが、これに反して経験は、ものの本性や原因についての知識をもつことなしに、ただこれまではこうであったという記憶を保存していて、それにもとづいたあて推量をするだけのものである、という点である。第二の点は、目的や意図の相違によるものであって、すなわち技術は、つねに対象の善を目ざしているものだが、経験の方は、どうしたなら対象の気にいるかと、対象の快を狙うだけであって、そうすることが果たしてその対象にとってほんとうに善いことになるかどうかには、全く無関心なものである、という点である。(318)
つまり弁論家のつくり出す説得とは、「知識の伴わない、たんなる信念だけをもたらすもの」だからである(320)
主として、第一の条件に即して技術としての弁論術のあり方を論じたものが、『パイドロス』の第二部なのである。これに対して、この『ゴルギアス』では、もっぱら第二の条件、つまり、取り扱う対象の快をではなく善を目指すべきであるという観点に立って、あるべき弁論術の姿が論じられているのである。(321)
つまり、真の政治のあり方については、次のように語るのである。すなわち、もし人が真の意味での弁論家、つまり技術の心得ある優れた弁論家なら、どんな話をし、どんな行動をとる場合でも、その人はつねに国家国民の最善を念頭におきながら、国民一人ひとりの心の中に、正義その他の徳が生まれ、それと反対の悪徳は取りのぞかれるように努めるはずである、と。つまりその人は、国民ひとりひとりがよりすぐれた人間になるようにと、ちょうど医者が身体の世話をするのと同じ仕方で、精神の世話のために奮闘努力するのでなければならない、と。(322)
この対話篇のなかの論議はもっと広く、道徳観や人生論の全般に及ぶものであることは前に言われたとおりである。(324)
『ゴルギアス』プラトン著 加来彰俊訳(岩波文庫)の解説より引用