
読んでも難しすぎて理解できない本というのがある。高校時代、そういう難しい本をただ読むだけ、目で追うだけの読書をよくしていた。でも不思議と読んだ、という記憶は残っていて、時間が経つと「ああ、あそこの一文が確か・・・」みたいになる。となるとあながちそんな読書の仕方も良いのでは、と思っている。今読んでいる『言葉と物』ミッシェル・フーコー著もそうだ。全くわからないとも言い切れるし全くわかっていないわけではないとも言い切れる。本とは不思議な物だ。
2019年4月17日の手帳のメモ書きより
タンクローリー に乗ってガソリンを配送していた半年というのは本当に時間が無く、それこそ睡眠時間もままならなかった。そんな毎日を送っていると本なんて読む時間はなかったわけで、知的生産活動なんてとてもできる状態ではなかった。タンクローリー の仕事も楽しかったが、僕の生活の中に読書というものがなくなってしまうのはやはりアウトだった。配送する仕事の楽しさはあるものの読書ができないのはこたえた。
おそらくこうだ。2019年4月17日の手帳に書いたとおり、過去に読書をする体験をもっていることで脳がそのような読書脳になっていて、その読書脳に刺激がいかなくなる(いわゆる読書をしなくなる)と激しい不具合を起こしてしまうのだろう。過去の断片。あの時ああいう本を読んでその知識とともに自分は成長してきた体験。そしてその成長過程でまた読書をしアップデートされて体験が満たされてきた。それが途端に読書ができない環境になるとアップデートを求められているのに更新できない。だから頭と体が合致せずに生きることになる。そこで脳は読書を求めるでもタンクローリー の日常では読書ができる体環境にはない。
タンクローリー に乗っていた日々でも1冊何とか読了した本があった。『日本最高戦略』落合陽一著だった。「デジタルネイチャー」という言葉が新鮮だった。若き日の吉本隆明さんを彷彿とさせる落合氏。この本だけはその当時ベストセラーになった(?)こともあって何とか読んだのを覚えている。そんな読書が生活から抜け落ちた時期に終わりを告げた2019年4月。読書欲に駆られて僕が満を持して選んだ本が手帳にもメモした『言葉と物』ミッシェル・フーコー著だった。素人がいきなりエベレストへ登るようなものである。それだけ難解な本だし、タンクローリー の仕事から現実世界に戻ってきて最初に読む本ではないのはわかっていた。でも読みたかった。僕の読書脳が知識の最高峰を標榜していたのだ。この本はハードカバーで上下2段組で413ページある。難解すぎて悶絶しながら読んだ記憶がある。でも不思議と途中で投げ出したいと思うことはなかった。「絶対読んでやる!!」という熱意は消えることがなかった。この本についてはまた後日アウトプットしたいが、僕の好きな一文を少しだけあげておく
言語は人を誤らせもするが、人の学んだことを記録する。それは、その無秩序な秩序によって誤った観念を与えもするが、まことの観念は言語のうちに偶然の力だけでは生じえぬ秩序の消しがたい標識を残すのである。(112)
『言葉と物』ミッシェル・フーコー著渡辺一民・佐々木明訳(新潮社)
今この本をもう一度読めるか?と自分に問うてみると「いや、無理かもしれない」と思ってしまう。この本は2019年の4月のあの時期にしか読めなかったのだと思う。それだけ当時の僕の読書脳が激しく知識を渇望していたのだろう。