
いつもの通りマーカーで線を引いたところをアウトプットしてみる。今回はマーカー部分がかなりの量あっため、その中でも自分がメモを併記している箇所のみを。この本は難しすぎてインプットできていない。明言できる。でも僕の興味のある共同幻想とその現れ方である言語とその背後に作用する意志とその表出の仕方についてすごく本質をついている。時間があって体力も残っていれば死ぬまでにもう一度読みたいと思っている。
16世期末、あるいは17世期初頭に現れたような百科事典的企ての形態は、まさにそこから由来する。それは、人の知ることを言語という中性的な場に反映しようとするのではなくー百科事典における恣意的だが効果的な配列順序としてのアルファベットの仕様は、17世紀後半にならなければ見られないー空間における語の連鎖と配置によって、世界の秩序そのものを再構成しようとするのである。(63)
『言葉と物』ミッシェル・フーコー著 渡辺一民・佐々木明訳(新潮社)より
これ現在でいうGoogleのことを言ってないか。
したがって表象行為は、互いに近接した内容につねに束縛されることとなり、みずからを繰り返し、みずからを想起し、ひとりでにそれ自体のうえに折りかさなり、ほとんど同一の印象を再生せしめ、かくて想像力を生起させることとなる。(95)
『言葉と物』ミッシェル・フーコー著 渡辺一民・佐々木明訳(新潮社)より
ここにも「Google」というメモが残されている。おそらくこうだ。物事の現象世界を観念だけで捉えることから言語によってそれらを捉えることになると、漠然とした世界の物事を言語による定式で捉えるよになる。言語が先にあって、その言葉がもつ意味ありきで物事に枠組みをはめていく。そしてそれは言語が言語を引き寄せ鶏が先か卵が先か理論みたく、現象が先なのか言語が先なのか、になってしまう。言語が言語を呼び寄せグループ化し現象を言語として表出するようになる。それを機械的にしてしまったのがGoogleを代表とする現在的な流れ。
そうしたわけで、あらゆる語は、いかなるものにせよ、眠っている名詞である。動詞は形容名詞と《ある》という動詞の結合したものであり、接続詞と前置詞は身振りを表す名詞の固定したものであり、曲用と活用は他の語に吸収された名詞にほかならない。(128)
『言葉と物』ミッシェル・フーコー著 渡辺一民・佐々木明訳(新潮社)より
ここには「◎」がして強調してあった。「眠っている名詞である」という表現が俊逸だ。
「唇の接触はもっとも容易であり、もっとも柔らかく優雅であもあるので、人間が知る最初の存在、彼を取りかこみ、彼がそれらにすべてを負うところの存在を指示するのに役だった」(パパpapa、ママmamanとか接吻baiserとか)(128)
『言葉と物』ミッシェル・フーコー著 渡辺一民・佐々木明訳(新潮社)より
ここにも「◎」がして強調してあった。いわゆる赤ちゃんが発音する「m」発音が世界各国に多くみられることは以前読んだ『胎児の世界』三木成夫著にもあった。おそらくその影響もあってこの箇所をマーカーしたのだと思う。
マジソンは、<植物学>がいつの日か厳密に数学的な学問として扱えるようになり、たとえば「マツムシソウ科とスイカズラ科の境界線をなすもっとも明瞭な点を求めよ」とか、キョウチクトウ科とルリヂャ科のちょうど中間を占める既知の植物属(自然のものでも人口のものでも良い)を求めよとかいうふうに、代数学が幾何学の場合のような問題を出すことが許されるだろうと考えていた。(160)
『言葉と物』ミッシェル・フーコー著 渡辺一民・佐々木明訳(新潮社)より
ここには「現代にも」とメモがあった。博物学について語られている中で、この文言が出てくる。おそらくこうだろう。植物の世界における個体の数々は「個」で見れば「それ自体」として完結しがちであるが、構造的に植物の世界を捉え、数量化していけば「個体を超えた」見えない中間値も境界値も算出できるようになる、と。こいう考え方や学問が出現したことで人々の生活の中に見えない数量化された新しいレイヤーが加わる、という。そんなところか。
土地を抵当とし、毎年の支払いによって消却される証券を発行するだけでよい。・・・・・こうした証券は、そこに記された価値をもつものとして正貨同様に流通するであろう(204)
『言葉と物』ミッシェル・フーコー著 渡辺一民・佐々木明訳(新潮社)より
ここには「フラット35と同じ」とメモがある。そのままである。
しかし、交換というものの内部、すなわち等価性の秩序のなかでは、価値の異同を決定する尺度は、必要とはべつの性質のものである。この尺度は、個人の欲望のみに結びついたものでも、欲望と共に変化するものでも、欲望のように変わりうつりやすいものでもない。それは、人間の心や欲求に依存しないという意味で絶対的な尺度である。この尺度は外部から人間に課せられる。すなわちそれは、人間の時間と労力なのだ。(244)
『言葉と物』ミッシェル・フーコー著 渡辺一民・佐々木明訳(新潮社)より
ここにも「◎」がつけてある。価値の交換と言うことについて。それは「人間の時間と労力」だとはっきり書かれている。別の文章では
経済学者にとっては、物の形態で流通しているのは一定量の労働なのだ。もはや必要の対象がたがいに表象しあうのではなく、変形され、隠され、忘れられた、時間と労力があるにすぎない。(244)
『言葉と物』ミッシェル・フーコー著 渡辺一民・佐々木明訳(新潮社)より
こう書かれている。「変形され、隠され、忘れられた」と言う形容が良い。労働を捉える概念がここに記されている。そして続けられる労働について、その時間と労力とは、
それは、彼らがみな、時間、労力、さらに究極においては死そのものの、支配下におかれているからなのだ(245)
人間の本質(人間の有限性、人間と時間との関係、死の切迫)(245)
『言葉と物』ミッシェル・フーコー著 渡辺一民・佐々木明訳(新潮社)より
「死」は万人に平等に訪れる。そして人は「死ぬ」ことを絶対的に知っている。なので逆算をしていくといかに時間が大事であるか、そして時間と共に費やされる労働力が価値を生むものであるかがわかってくる。
市場のたえまない動きのなかで物に階層的秩序をあたえるのは、他の品物でも他の必要でもなく、物のなかにひそかに沈殿している、その物の生産に要した活動である。物の固有の重み、その商品としての堅固さ、その内的法則、さらにそうしたものをつうじて物の実質的価格とも呼びうるものを構成するのは、物を製造し、採取し、運搬するのに要した日数と時間にほかならない。(258)
『言葉と物』ミッシェル・フーコー著 渡辺一民・佐々木明訳(新潮社)より
ここでも「時間」が重要であることが述べられている。人々が必要だから必要に応じて価値が評価されるのではなく、その物の固有性、自律性とそれが生まれ、商品化され顧客の手に運ばれるまでの時間が価値に上乗せされる。それが市場の原理である、と。
もはや変動は上から(選ばれた学者たち、商人や旅行者の小さなグループ、勝ちほこる軍隊、侵入する貴族階級から)くるのではない。それと認められることなく下から生まれるのだ。なぜなら言語は、手段でも生産物でもーフンボルトの言う《労働》でもなくーたえざる活動性ー《エネルゲイアー》ーだからである。言語の中で、話すもの、聞こえないとはいえ、ともかくそこからあらゆる輝きのやってくるつぶやきとして話すことを止めぬもの、それこそ民衆なのだ。(311)
『言葉と物』ミッシェル・フーコー著 渡辺一民・佐々木明訳(新潮社)より
この本で僕が一番グッときた文言がこれ。物事を事物として認識するツールとしての言語ではなく今ではそれは人々の間で活動性の源であり、エネルギーになっている。そしてそれら活動源で活動するのが民衆なのだ、と。これ現代でいうところの街中で生まれては消えていく言語活動にみて取れる。
この本の新装版が出たそうだ。まだ手にしていない。手にするかな?これを読むのには本当にエネルギーがいる。さて、この度のアウトプットで少し、ほんの少しはインプッっとできたかな。おしまい。