『ゴルギアス』プラトン著加来彰俊訳(岩波文庫)をリタイアして最初から読み直すことにした

『饗宴』プラトン著久保 勉訳(岩波文庫)を読んでいた時もそうだったけど、プラトンの対話篇は読みやすい反面、ソクラテスのディアレクティケー(対話の術)によって読者もアポリア(困惑)に陥ってしまう。今回読んでいる『ゴルギアス』も途中までは何とかわかっているつもりで対話を追っかけていたが、ふと、「これ理解できていないな」と気づき、最初から読み直すことにした。何が理解できていないか。それをここで明確に書ければわかっているということになるのだろうが、頑張って書いてみようと思う。

わからない点は次の文言だ。「不正を行う」「不正を受けない」。「不正を行い裁きを受ける(第二番目の害悪)」「不正を行いながら裁きを受けない(第一番目の害悪)」ちょっと気になる文言をアウトプットしておいて、と。これはこの本の主たるテーマなのでこれは曖昧に読み過ごすことはできない。

ボロスは

アルケラオスを、彼は最大の不正を行っていながら、何の裁きも受けていないから、幸福であるとした(109)

『ゴルギアス』プラトン著加来彰俊訳(岩波文庫)より

と言っている。それに反してソクラテスは

他の何人であろうと、不正を行いながら裁きを受けないものがあるとすれば、そのものは当然、他のどんなひとたちにまさって不幸であるはずだし、また一般に、いつも場合でも、不正を行う人の方が不正を受ける人よりも、そして裁きを受けない人の方が裁きを受ける人よりも、もっと不幸であると考えていたからなのだ(109−110)

『ゴルギアス』プラトン著加来彰俊訳(岩波文庫)より

と語る。一旦整理してみよう。「不正を行う」と「不正を受けるもの」は対応している。また「不正を行い裁きを受ける」と「不正を行いながら裁きを受けない」も対応している。これを「幸」「不幸」で分類すると、「不正を行う人(悪いことをする人)」が「不正を受ける人(悪いことをされる側の人、悪いことに当面する人)」よりももっと不幸であり、「裁きを受けない人の方」が「裁きを受ける人」よりも不幸であるとソクラテスは言っている。ボロスもそれに同意する。裁きを受けないようにうまく弁論術によって回避させるのが弁論家であることがここで論破されている。

こうやって書き出していくと、わからなかったところがだいぶ明瞭になってきた。よしよし。これで最初から読み直そう。時間はかかるけど、これこそプラトンの対話篇を読む醍醐味だと思う。

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