『ヴェーユの哲学講義』シモーヌ・ヴェーユ著渡辺一民・川村孝則訳をちょっとだけアウトプットしてみる

いつもの通りマーカーで線を引いたところをアウトプットしてみる。ちなみに、この本はシモーヌ・ヴェーユがロアンヌ女子高等中学で教鞭をとっていた時、受講していた生徒の一人が講義の様子を記録で残していたものである。ヴェーユの肉声とも言えるものである。

ことばは社会が自然につくりだしたものであって、私たちがある語を考えだすのは完全に不可能なことでしょう(中略)

(4)こうしてことばのおかげで、私たちは知的環境に浴することになります。私たちにとって、ことばを介して伝えられるどのような思想とも無縁な思想を抱くことは不可能です。私たちは自分自身のある状態を表現するにしたがって、その状態をあらゆる人間に共通する領域へと組みいれることになります。だから《ことばに浄化作用がある》とされるのです。そうした意味で、ことばが私たちの内部を蝕む事物すべてを表現するというのは、健康なことです。それが表現されるやいなや、それは一般的で人間的な、したがって乗りこえうる何かとなるからです。(中略)ゲーテがひとたび『若き日のウェルテルの悩み』の中で自分の絶望する表現するや、それはすべての人間がいちどは通過する段階となったのです。

自分のなかにある狂気のすべてを表現することによって、私たちは再生することとなります。そうやって私たちを人間性から引きはなしていたものに、人間的であるという性格をあたえることになるからです。(103−104)

『ヴェーユの哲学講義』シモーヌ・ヴェーユ著渡辺一民・川村孝則訳(ちくま学芸文庫)より

『言葉と物』ミッシェル・フーコー著を読んだ時もそうだったが、人が言語を獲得していく過程以前にあった様々な思いとかいわゆる非言語的なるものを、言葉というものに置き換えていく一連の流れがあり、最初は茫漠とした思推の寄せ集めが言語化されて行った。それがそのうちに言語が先行する形になって、言語に寄せられた意思が言語で表現されるという順番になって現在に至るわけだ、と僕は理解している。

思想が言語化されてはじめて社会化され、一般性を得る。「私は丸々について正しいと思っている」という思いがあるとしよう。でも言語がなければ「・・・ ・・・・ ・・・・」などと言葉にならない音声としてしかない。それは何も意味を持ち得ていないしましてや他者とやりとりできる物ではない。言語も共同幻想であるわけだから、共同的なるものになる過程としては「社会」の存在が必定となる。音声に乗った記号が共同で共有されるということは社会化されるということであり、意味が流通するということでもある。

雑感である。正しい見解ではないので悪しからず。独り言です。

でもこのヴェーユの言葉は、アウトプットの大事さの意味を伝えてくれるものだし、僕が今手帳や日記にメモを残したり記録を書き留めているのは、とても意味があるということを気づかせてくれる。

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