『ゴルギアス』プラトン著加来彰俊訳(岩波文庫)を少しだけどアウトプットしてみる

いつも通りにマーカーで線を引いたところをアウトプットしてみる。

他方、これに対して、もう一方の種類のものは、何が善いことであり、何が悪いことであるかを、よく知っているものである。そしてぼくは、快楽を目標とするほうの仕事にぞくするものとしては、料理法という、技術ではなしに、経験をあげたし、他方、善を目標とするほうの仕事にぞくするものとしては、医療の技術をあげたのであった。(171)

その事柄とはつまり、人生いかに生くべきか、ということなのだ。すなわち、君が僕にすすめているような、それこそ立派な大の男のすることだという、弁論術を修めて民衆の前で話をするとか、また、君たちが現在やっているような仕方で政治活動をするとかして、そういうふうにして生きるべきか、それとも、このぼくが行っているような、知恵を愛し求める哲学の中で生活を送るべきか、そのどちらにすべきであるかということであり、そしてまた、後者の生活は前者のそれと比べて、いったい、どこにその優劣はあるのか、ということなのだ。

そのうちの一方は、技術的なものであって、魂にとっての最善が何であるかについて、あらかじめ何らかの考慮をしているものであるが、これに反して、もう一方のものは、最善ということは無視して、これまた身体の場合と同じように、ただ魂の快楽だけを問題にし、どうしたなら魂に快楽がもたらされるか、ということは考えているけれども、快楽のなかでも、どれより善いものであり、どれより悪いものであるかということについては、考えてみようとしなければ、また、より善いことになろうが、より悪いことになろうが、ただ気に入られて喜ばれさえすれば、それ以外のことは全然、関心のないといったものなのである。(174)

すなわち、幸福になりたいと願う者は、節制の徳を追求して、それを修めるべきであり、放埒のほうは、われわれ一人一人の脚の許すかぎり、これから逃れ避けなければならない。そして、できることなら、懲らしめを受ける必要のひとつもないように努めるべきだが、しかし、もしもその必要がおきたのなら、それを必要とするのが自分自身であろうと、身内の中の誰かほかの者であろうと、あるいは、一個人であろうと、国家全体であろうと、いやしくも幸福になろうとするのであれば、その者は裁きにかけられて、懲罰を受けるべきである。これこそ、ひとが人生を生きる上において、目を向けていなければならない目標であると、ぼくには思われるのだ。そして、自分自身に関することも、国家に関することも、すべてをこの目的に傾注しながら、いやしくも仕合わせになろうとするなら、正義と節制の徳がそなわるようにと行動しなければならないのだ。(193−194)

人は不正を受けることよりも、むしろ不正を行うことのほうを警戒しなければならない。ひとは何よりもまず、公私いずれにおいても、善い人と思われるのではなく、実際に善い人であるように心がけなかればならない。しかし、もし誰かが、何らかの点で悪い人間となっているのなら、その人は懲らしめを受けるべきである。そしてこれが、つまり裁きを受けて懲らしめられ、正しい人になるということが、正しい人であるということに次いで、第二に善いことなのである。(245)

『ゴルギアス』プラトン著 加来彰俊訳(岩波文庫)より

他にも素晴らしい言葉が合ってたくさんマーカーを引いているのだが、自分がこれだと思ったところだけを抜粋してアウトプットしてみた。弁論術に対するソクラテスの批判は至極適切にされており、当時のアテナイにおける弁論術隆盛の流れにあってよくここまで語れたと思う。この対話篇から見えてくるものとして現代でも似ている状況はあると思うし、プラトンがソクラテスに対話させながら追求するその真理は、現代を生きる我々の生き方についても鋭く問いかけるものとなっている。

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