
正直1回読んだだけでは理解できないのでもう1回読むつもりだ。プラトンの著作は主にソクラテスの対話篇からなり一問一答式のディアレクティケー(対話の術)なので読みやすい。が、中身を理解するには何度も読み込まないといけないぐらい難しい。そしてこの度の『プロタゴラス』は珍しくソクラテスの論述が長くあって、一問一答式ではない。いつもならゆっくりと言葉を追いかけられているのが、長い論述によって何を言わんとしているのかがだんだん分からなくなってくるから厄介だった。巻末の解説を読んでから読んでみたもののそれでも理解には程遠く、自身の頭の弱さに辟易した。You Tubeもあたってみたが良い動画はなかった。
本当に理解できていないので本来ならアウトプットできるわけもないのだが、少しでも頭に残すためにマーカーを引いたところをいくつか上げておこうと思う。
シモニデスの詩を引用したプロタゴラスに対してソクラテスが批判を放つ。
詩のことを話題にして談論をかわすということは、どうも私には、凡庸で俗な人々の行う酒宴とそっくりのような気がしてならないのです。(119)
これに反して、教養のある立派な人々が酒宴に集まる場合には、そこに笛吹き女も、舞妓も、琴をひく女も見出すことはできないでしょう。彼らは、そういうたわいもない慰みものなどなくても、自己自身の声によって、自分たちだけで互いに交わるこにこと足りるものをもっており、たとえ非常にたくさんの酒を飲んでも、自分たちのあいだで順番に秩序正しく話したり聞いたりするのです。(120)
すなわち、詩人たちに引っ込んでもらって、私たち自身だけを頼りに、直接お互いに向かって語りかけながら、真理と私たち自身とをためさなければなりません。(121)
『プロタゴラス』プラトン著藤沢令夫訳(岩波文庫)より
この行は、『国家』でも同じように詩人批判されていることとつながってくる。そして解説で藤沢令夫氏も以下のように解説している
詩のなかに<知>は不在である。ーソクラテスがシモニデス解釈によって演じてみせるパロディは、このようにしてそれ自体が、詩についての論議を「教育の最も重要な部分」と考えて怪しまない「教育者」ソフィスト(*プロタゴラスたちのような立場の人)に対する、痛烈に皮肉な批判であり、そしてその批判はさらに、真の<知>に対するきびしい要請から促されているものである。(198)
『プロタゴラス』プラトン著藤沢令夫訳(岩波文庫)より
このソクラテスのソフィストに対する考え方は『ゴルギアス』でも充分に発揮されている。
われわれにとって生活を安全に保つ途は、快楽と苦痛を正しく選ぶこと、その多少、大小、遠近を誤たずに評価して選ぶことにあることが明らかになったのであるから、そこに要求されるものは、まず第一に、計量の技術であることは明らかではないだろうか。(148)
『そして、計量である以上、それは必然的にひとつの技術であり知識でなければならないだろう』(148)
『プロタゴラス』プラトン著藤沢令夫訳(岩波文庫)より
このあたりもなんとなくわかっているようでわからない。でも「知識」がキーワードになっていることはわかる。藤沢令夫氏の解説では、ちょっと長くなるが以下に引用する
世人が言う「善を善と知りながら快楽に負けてそれを行わない」とか、「悪いことを知りながら快楽に目がくらんでそれを行う」とかいった事態ーいわゆる無抑制(アクラシアー)ーはありえないということを証明するために、その踏み台として提出されたものであった。そしてソクラテスの有名なパラドクスほど「知る」という言葉の内にソクラテスがこめた重みを、端的に示すものはないであろう。「悪い」と知りながら・・・・」という言い方には、「知る」ということについての甘えがある。ソクラテスのいわゆるパラドクスは、ほんとうに知っているのなら絶対に行わないはずではないかと、この甘えをきびしく禁止するのである。(199ー200)
『プロタゴラス』プラトン著藤沢令夫訳(岩波文庫)より
無知であるが勇敢であるという言葉には、勇敢という言葉より無謀、無知なるがゆえの無謀さであると説明がつけられる、のか。ソクラテスは、そういう勇敢さは褒め称えられるものではない、知識をないがしろにするのではない、ということを言いたかったのか。ソクラテスの次の言葉に現れている
したがって、快楽に負けるとは何を意味するかというと、それは結局最大の無知にほかならないことになるのである。(150)
『プロタゴラス』プラトン著藤沢令夫訳(岩波文庫)より
ちょっと見えてきたのはソフィストたちが、言葉によって技術のない人たちにそれらしくわかるようなことを言うことに対して、いや、実はそんな簡単なもんじゃないぜ、と突き詰めているのがソクラテスなんだなあ、おそらく。さて、もう1回最初から読み直します。