チャレンジはいつまでできるのか?

昨日のブログで「49歳の壁」(⇠ここをクリック)について書いた。そこで次の世代にバトンをわたすことの意味みたいなものを書いたが、でも、バトンを渡すことも大事だけど、バトンの中身はどうなんだろうと考えてしまった。つまらないバトンだったら渡される方も嫌だろうなあ、とちょっと考えたのだ。

もちろん「お金」というのはすごく大事で渡された方も使い方が選べるので良いものだと思う。そういう意味ではお金を受け渡しするのは良いしそれはあって良い。でもここで言いたいのはそういうことではない。物やお金は良いものなんだけど、善いものではないのではないか。そう物やお金は一瞬でなくなってしまいかねないもの、もしくは形が壊れてなくなってしまうものであるのだ。しかし善い行いや、善い思い、善い考えは即効性はないかもしれないけど、引き渡されて長い時間生きながらえ影響を与えていくものだと考える。そういう善いバトンを渡せるようになっているかどうか?そういう善いものをバトンとして渡したいな、と今朝ふと考えたのだった。

そのためには自分が自分に嘘をつかずに「ちゃんと生きてきた」といえるものを持つことではないか。ちゃんと、というのは善いことを仕事なり生き方なりで体現すること。ああ、この瞬間まで自分は善いことに向かってチャレンジしてきたし少しは実践してきたよ、と言えるといいなあ。僕は今、そんな善いことに向かってチャレンジしているかというと、していない。これから先していくかどうかもわからない。でも一つ言えるのは、物やお金だけでない違った価値観も大事にしながら生きている。なのでいつでもチャレンジできるように準備運動だけは常にしておこうと思う。

ちなみに準備運動は何をしているかというと、やはり哲学を、知恵を探求するということで、今の僕にはそれは本を読むということになっている。

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