『プロタゴラス』プラトン著藤沢令夫訳(岩波文庫)本編を簡単にアウトプットしてみる

2回、2回読んでみたが正直理解はできていない。メモをとったり図式化しながら読んだがやっぱりよくわからない。文章は読みやすくとっかかりやすいのだが、中身が、難解だった。でもアウトプットしておかないと脳に記憶されないのでとにかく文章化してみる。

はじめはソクラテスと友人の会話から始まる。友人に向かってソクラテスがプロタゴラスがアテナイにやってきて3日目になること、彼とあって話してきたことを話す。そこから間接話法的にソクラテスがプロタゴラスと話したことについて友人に語るという形で進められていく。

本編では、議論の戦わせ方について意外とおもしろい駆け引きがなされている。若きソクラテス、おそらくこの時齢36歳ぐらいであるが、自身よりも(おそらく)遥かに年上であろうプロタゴラスに対して

「どうやらあなたは、この議論をうるさがっていらっしゃる様子ですから、この問題はこれで打ち切って、あなたのおっしゃったことのなかから、別に次のような点を取りあげて考察することにしましょう」(72)

「いや、話し合いが成立するためには、両方の能力を身につけていらっしゃるあなたが、譲歩してくださるべきだったのです。しかし、現にあなたはその気がないのですし、私にもちょっと用事があって、このままおそばで長いお話をうかがっているわけにはゆきませんのでー私はとあるところへ行かなければならないのでー、これでおいとましましょう」(85)

『プロタゴラス』プラトン著藤沢令夫訳(岩波文庫)より

と遠慮なく牽制をかけている。ソクラテスとプロタゴラスの周りにはプロディコスをはじめ何人かのソフィストがいたりソクラテスをよく知る友人たちがいた。その面前でこういう駆け引きを遠慮なくやるソクラテスの不敵さが心地よい。この牽制によってプロタゴラスは逃げ場を失い、まんまとソクラテスの対話法に載せられていくのであった。

話は戻って、プロタゴラスは最初に徳は教えられるものだと語る。それに対してソクラテスは

プロタゴラス、私としては、人間の徳性というものが、ひとに教えることのできるものであるとは考えられないのです(40)

『プロタゴラス』プラトン著藤沢令夫訳(岩波文庫)より

と返しつつ、その根拠というか、徳が教えられるということの説明をしてほしいと求めるのだった。そこでプロタゴラスは「よろしい」と物語、神話をテーマにして説明し始める。

いったい、いやしくも国家が成立するためには、必ずすべての国民がわけもたなければならないような、何か一つのものがあるあろうか、それともないだろうか?(中略)その一つのものとは、大工の技術でも、鍛冶屋の技術でも、陶工の技術でもなく、実に正義と節制と敬虔であり、これを一言にしていえば、人間としてもつべき徳こそがそれであるとしよう。

『プロタゴラス』プラトン著藤沢令夫訳(岩波文庫)より

その後、個人的にも公共的にも徳が教えられるべきものであるとプロタゴラスは言うのである。そして徳を教えるのは誰であるのか、それはギリシャ語を話している人々の中にいたら誰がギリシャ語を教えており更に教わっているということは意識しないだろう、と言いながら徳もしかりだと言う。

(前略)ソクラテス。ほかでもない、あらゆる人々が事実上、それぞれの能力に応じて徳を教えているので、とくに誰かが徳の教師であるようには君には見えないからなのだ(59)

『プロタゴラス』プラトン著藤沢令夫訳(岩波文庫)より

一般的には見えないけど、いるのだ。徳は教え教えられているのだ、とプロタゴラス。要するにその徳を教える人たちの中で抜きん出いているのがソフィストと呼ばれる人たちなのである。それは社会から必要とされ、徳を教えるために存在する。プロタゴラスたちの存在意義的なものの説明にもなっている。

そして話題は「徳」の中身について移っていく。徳には「正義」「節制(分別)」「敬虔」「知恵」「勇気」がある。そしてここでプロタゴラスは言う

「勇気はあるが不正な人間だという者もたくさんいるし、他方また、正義の人ではあるが知恵が無いというものもたくさんいるのだから」(65)

「すなわち、世には、並外れて不正、不敬虔、放埒、無知な人間でありながら、ただ勇気だけはとくに衆をぬきんでているというようなものがたくさんいることを、君は見出すだろうから」(125)

『プロタゴラス』プラトン著藤沢令夫訳(岩波文庫)より

徳は教えられるものといいながらプロタゴラスは、無知が故に徳の一つである勇気をふるう人がいるというパラドキシカルなことを言いはじめる。それに反応したのがソクラテス。詰めていく。そしてプロタゴラスから次の言葉を引き出す

つまり、知識のある人々は知識のない者よりこわがらず、またそれぞれの当人においても、ものを学べば、学ばない前の自分とくらべて、その事柄をこわがらなくなるのである(127)

『プロタゴラス』プラトン著藤沢令夫訳(岩波文庫)より

無知がゆえに無鉄砲でそれを勇気があるといっていたプロタゴラスが、ここでは知識をえると怖がらなくなる、イコール勇気がでる、ということを言っている。知恵こそが勇気であるということにだんだんと論点が集約されていく。そしてソクラテスのすごいところは、話の展開をプロタゴラスあなたに対して、ではなくて第三者を立てて「その者共に」語りかけると言った具合に、話し方を変えたことである。第三者を取り入れることでプロタゴラスと直接的にやり合わなくて済むし、客観的にとらえることができるので話が進めやすい。これはすごい展開法。

この後ソクラテスは勇気について、その勇敢さの判断軸となるものは結局「知識」であることを主に置きながら展開してゆき、それは計量できるものなのではないか、できるできないの判断をする際に、あれは長いからやれるとか短いからできないとかの判断を人はしているのではないか、と。「計量術の一種としての知識ではないだろうか」(148)と言っている。

われわれはにとって生活を安全に保つ途は、快楽と苦痛を正しく選ぶこと、その多少、大小、遠近を誤たずに評価して選ぶことにあることが明らかになったのであるから、そこに要求されるものは、まず第一に計量の技術であることは明らかではないだろうか。(148)

そして、計量術である以上、それは必然的にひとつの技術であり知識でなければならないだろう(148)

『プロタゴラス』プラトン著藤沢令夫訳(岩波文庫)より

じゃあ、知識をもった人でもしばしば快楽に負けることがある、それは何故であり何か?と

それは無知である(149)

『プロタゴラス』プラトン著藤沢令夫訳(岩波文庫)より

してみると結局、恐ろしいものと恐ろしくないものに関する知恵こそが、勇気なのだということになりますね。

『プロタゴラス』プラトン著藤沢令夫訳(岩波文庫)より

とどめの一撃である。これで無知でありながら勇気だけは抜きん出ている者がいると言っていたプロタゴラスは完全に論破された。

プラトンがアカデメイア(人類における最初の大学をプラトンはつくった。)を創設したときに幾何学ができないものは入学させないようなことが碑文に残っているのだそうだ。これとも関係するこの『プロタゴラス』における「知識は計量できるもの」である、という話の展開は、プラトンの考えからすると至極当たり前の産物のような気がする。徳を教えられるのはソフィストだけの技術ではない。それはもっと具体的なもので勇気を例に取ると、それは計量できる知識の量であり、より現実におとしこんで教えられるものであるとソクラテスは言いたかったのだ。

僕の気付きはこれぐらいだった。あれこれいろいろいと読み進めたが、やはりいまいち理解できていない。でもプロタゴラスが詩を引用したり、長広舌で論じてみても、やはりソクラテスのディアレクティケー(対話の術)にかかると、化けの皮がはがされるのだということがわかった。それだけでも読了した感想として良しとしよう。

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