
かしこくなりたいから。というのは嘘で、まったくの嘘ではなく少しはそう思うところもあるが・・・。本を読まなくても生きることはできる。そんな簡単に言うもんじゃあない、という意見も聞こえてきそうだが、実際に本なんて読まなくても充分に生きていける。読書する時間を遊びの時間に使うのも良しだし違うことに使うのは全然構わない。そこは自由だ。でもそこに本がある限り、手にしてしまう。それはなぜか。それも小難しい本を選んで読んでしまう。小さい頃から本に慣れ親しんできたから?そんなことはない。本を本格的に読み始めたのは高校生からだ。すごくたくさん読んできたわけでもない。何が言いたいかと言うと特に習慣化しているものでもないのだ。でも本のない生活は考えられない。なぜ?
おそらくこうだ。生きるとか死ぬとか神様だとか地獄だとか美しいだとか醜いだとかいわゆる観念の世界を私たちは生きている現実が一方である。それは生活していて明確に答えがあるものではなくあっちに行ったりこっちに行ったり不定形なものだ。無視して生きようとおもってもふわふわとまとわりついてくる。そんな感じだ。そのふわっとした感じに言葉と意味を与えてちゃんと理解するために、文字として表現されたもの、文章、本を読むのだと思う。
そもそも言語、言葉自体そのものが人々の幻想で成り立っている。それぞれの思い抱く観念をなんとか表現しようと形にしたのが言語である。だから言語になってそれがぎっしり詰まった本という物体は、観念や幻想の集合体であって、それらふわったとしたものが言語という媒体によって意思表出されているのだ。そのふわったとしたものを本という形で読んでいくことは、人々のそういうたくさんある思いや気持ち考えなどを理解していくことなのだ。当たり前だけど。
だから本というのはすごい高度なものなのだ。要するに、ふわっとした感じをちゃんと整理して言語化して提示してくれるもの。だから読みたくなる、という公式。もちろんふわっとしたままでも生きていける。「なんとなくいい感じ」という歌のフレーズにもあったようにふわっとしたまんまでも生きていける。でも、なぜふわっとしている?ふわっとした部分の言語化、共同幻想化ができていないと、意識の共有や知識の共有ができないまま終わってしまう。それでは実際のところふわっとは出来ているが、中身のあるコミュニケーションはできていないことになる。
ふわっとしたものを形ある言語に落とし込んでくれるのが本であり、本を読むことで日常に浮遊するそのふわっとしたものを変換して理解することができるようになる。だから本を読むことは意味があるのだ。なんてことを考えてみました。