③『パイドン』プラトン著岩田靖夫訳(岩波文庫)を途中までだが気づいたことをアウトプットしてみる

「アナクサゴラスへの失望」という小タイトルから始まる。ソクラテスはアナクサゴラスの書物で「万物を秩序づけ、万物の原因であるのは理性(ヌース)である」というのを知り一旦は喜ぶ。「理性が秩序づけている以上は、理性はすべてのものを、全体としても個々のものとしても、それらが最善であるように位置づけられているだろう」と期待した。だがそれを知るに連れ「理性」を少しも使用せず見当違いなものを原因としていることに失望を感じる。そしてアナクサゴラスとは決別をしたどりついたのが

そして、肉眼で事物を直接に見たり、各々の感覚で事物に直接触れようとしたりすれば、魂はまったく盲目になってしまいはせぬか、と僕は恐れたのである。そこで、言論(ロゴス)の中に逃れて、その中で存在するものの真理を考察しなければならない、と僕は思った。(129)

『パイドン』プラトン著岩田靖夫訳(岩波文庫)より

であり

僕が前提として立てるのは、なにか美それ自体が存在するということ、そして、善についても、大についても、その他の全てについても、事情は同様である。(100)

『パイドン』プラトン著岩田靖夫訳(岩波文庫)より

さらに

もしも、美そのもの以外になにか他のものが美しいとすれば、かの美そのものを分有するから美しいのであって、それ以外の原因によってではない。(131)

『パイドン』プラトン著岩田靖夫訳(岩波文庫)より

要するに、ソクラテスが言いたいのは、真に美しいであったり、真に大きいであったりすることは相対的なものではないということ。例えば、顔の大きさが小さく可愛らしいから美しいとかではなく、真実在(イデア)する真の(かの)美しさがあってこそ美しいのだと言っているのだ。正直何を言っているかよくわからない。理解に苦しむのだが、大ざぱに解釈すると、物事を見て判断するときに細かくパーツに分けていってそれら一部分を並べたり比べたりして判断する美しさとか大きさとかは、真実に近いと言えるのだろうか?それら微細な判断は本当に真実を捕まえることができているのか?とソクラテスは言ってるようだ。

先に我々は魂がイデアにてかのあるべき正しきもの美しきもの(美であったり正しさであったり)たち(真実在)を感得することを確認したではないか。点だけ見て物事の判断を下すのはイデア論からすると真逆の思考性とも言える。なのでここらでソクラテスはぐっとイデア論的な思考に切り替えるのである。

この『パイドン』の後に『国家』が書かれたのであるが、順番的には『国家』のイデア論の箇所を読んでからこの『パイドン』を読むと理解がしやすいと思われる。洞窟の比喩の行だけでも読めていると良いかも知れない。

引き続き読んでいくので、また途中経過をアウトプットしたいと思う。

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