
「世界で一番だめな人間」のように自分を駄目だと思ってしまうときがある。世界のすべての人と実際に何かを比べてみたわけではないのに相手は世界になっている。それで勝手に落ち込んでいる。なんて勝手なやつだと自分のことを思う。勝手に落ち込んでろ、自分め!!と叱責してみたりする。
けどね、だけどなんだけど落ち込んでしまうときがある。なんでだろう?自分は自分でしかないのに、だ。多分世界の自分をのぞく殆どの出来事が自分の力ではどうすることもできないもので出来ているからだと思う。そう裏を返せば、自分が自分で存在しているように思っているだけで実はそうではなくて実際はたくさんの人がいるおかげで自分がいれるわけで、いろんな物がいろんな人の手によってつくり出されているから生活できているわけで、そう、そういことなんだ。
自分の手の及ばないことがほとんどでそれらはコントロールできるものではない。でも時としてそれらはコントロールできるものだと錯覚をしてしまうのだ。そしてこの現実と錯覚の間に陥って「比較」が始まってしまうのでないかと思うわけだ。でも自分はこっちの側でもあるしあっちの側でもある。世界を構成している自分でもあるし世界から存在させられている自分でもあるわけだ。存在させられている、という言葉があるのかどうかはわからないけど。
おそらく世界を成り立たせている構成要素は緻密に計算され尽くしていて、それは神のみぞ知るわけで、僕らの手中にはないものなのだろう。だから世界を錯覚でみてしまって大胆不敵にも自分と比べちゃったりして「駄目だなあ」と落ち込むようなことがあっても、大丈夫。「あなたが考えているほどそんなちっぽけな世界じゃない。そしてあなた自信もちっぽけじゃない」と言われているとイメージしよう。イメージは大事だ。なによりも世界という幻想の世界は錯覚ごときで捉えられるものではない。幻想を追っかけても追いつけるわけない。それは日々激しく移り変わっていくものだからだ。その移り変わりに身を委ねる。それでいいのだ。自分の意思はあるように見えて実はないのかもしれない。それも幻想の一つだから。
小沢健二の楽曲「流動体について」を聞けば、僕らの住む世界が幻想であり、うつりかわっていくものであること(流動体である、と表現されている)、そしてほんのわずかなきかっけでいろんなことが変わるという歌詞が素敵なメロディーに乗っけられている。