『プラトン 対話篇 ラケス 勇気について』プラトン著三島輝夫訳(講談社学術文庫)を少しだけアウトプットしてみる

リュシマコスという人物がいる。彼とメレシアスの2人が自身の息子たち(成人して大人になっている)に徳を教えてくれるための先生としてニキアスとラケスの2人にその役をお願いする。そしてそこに居合わせたソクラテスにも同じく先生になってほしいと懇願する、と言う場面で、ソクラテスが真の先生たるものとは何か、ということを以下のように話し始める。

我々は彼らに対して、われわれの先生を示さなければならないのです。その先生たちはと言えば、まず第一に、自らすぐれた者であると同時に、多くの若者の心の世話をしたことがあり、それからまた、われわれを教えたことが誰の目にも明らかであるような人たちなのです。あるいは我々自身のうち誰かが、自分には先生がいなかったけれども自分の作品はあると主張する場合には、ーそれが奴隷であれ、自由市民であれ、ー衆目の一致して認めるところ、アテネ人もしくは外国人のうちの誰が彼のおかげですぐれた者となったのかを言い、かつ示さなければならないのです。

『プラトン 対話篇 ラケス 勇気について』プラトン著三島輝夫訳(講談社学術文庫)より

上記のことを解説で簡略に書かれている。以下の通り。ソクラテスは専門家の判断に従うべきだと述べている。

①その技術をすぐれた教師について学んだことがあること。さもなければ

②衆目の一致して認めるすぐれた作品を提示できること

『プラトン 対話篇 ラケス 勇気について』プラトン著三島輝夫訳(講談社学術文庫)より

ソクラテスは自身にこの二点をあてはめ自分はどれにも該当せずふさわしくない。しかしここにいるニキアス、ラケスの両氏は信頼できるほどのものをもっているため先生役を務めてほしいこと、自分は(ソクラテス)は2人の伴走者、助言者たることを明言するのである。

ソクラテスが提示した先生たるものの条件2つは、現代社会においても正鵠を得ている条件ではなかろうか。

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