
「勇気とは何か?」という問いから始まる。ラケスとニキアスがソクラテスの問答に答えていく。
ラケス:(前略)誰かが隊列に踏みとどまって敵を防ぎ、逃げ出さないとするならば、いいかね、その者は勇気があるのだ。(47)
ラケス:あらゆるものを貫く勇気の本性といったものを言わなければならないとするならば、僕にはそれは今や<心の何らかの忍耐強さ>であるように思われる(52)
『プラトン 対話篇 ラケス 勇気について』プラトン著三島輝夫訳(講談社学術文庫)より
ラケスは思慮ある忍耐強さとイメージを展開していくものの、ソクラテスの問によって実は思慮ある忍耐だけでなく無思慮な忍耐強さも勇気があることだと認めていく。無思慮であることは知識がないということでもあり、知識がないまま振る舞うということは無謀ではないか、立派なものとはいえないよね、とソクラテスに諭される。ラケスはこれでアポリアに陥る。一方のニキアスは
ニキアス:勇気のある者がすぐれた者である以上は、その者が知者であることは明らかなのだ。(61)
ニキアス:戦争ならびにそれ以外のあらゆることにおける<恐ろしいことと平気なことについての知識>のことをね。(63)
『プラトン 対話篇 ラケス 勇気について』プラトン著三島輝夫訳(講談社学術文庫)より
ここでニキアスから勇気は知識であると言う提起がなされる。それを受けソクラテスからは
ソクラテス:<恐れ>とは、<これから生じる悪についての予期>だからです。(中略)平気なのは、これから生じる悪くないものの、もしくは善いもののことであると主張するのです。
ソクラテス:あなたはわれわれと同じく、同一の事柄に関しては、これから生じることについても、現に生じつつあることについても、すでに生じたことについても、同一の知識が理解しているのだとおっしゃるのでしょうか。(ニキアス 同意する)
『プラトン 対話篇 ラケス 勇気について』プラトン著三島輝夫訳(講談社学術文庫)より
過去現在未来においてすべて同一の知識が理解していくことがソクラテスによって確認される。先に恐れは<これから生じる悪についての予期>とあり、また平気は<これから生じる悪くないものもしくは善いもの>と確認された。しかし過去現在未来とあらゆることを包含する同一の知識ということであれば、勇気は単なる恐ろしいこと、平気なことだけの知識ではないことになると解が引き出される。
ソクラテス:(前略)どうやら勇気は恐ろしいことと平気なことだけを対象とする知識ではなく、今度もあたあなたのお説通りに言えば、あらゆるあり方の、あらゆる善いことと悪いことについての知識が勇気だということになるようです。(79)
『プラトン 対話篇 ラケス 勇気について』プラトン著三島輝夫訳(講談社学術文庫)より
あらゆる善いことと悪いことについての知識が勇気という定義がなされたことにより、勇気が徳の一部分でなく徳全体のことを指すものであると確認される。議論のはじめ勇気は徳の一部であるということからスタートしていた。しかしそれが勇気は知識であり、それが知識全体のことを指しているのであり、それが善悪を指すことであるならそれは徳全体を指していることと同じである。そのことから導き出されたのが、勇気は徳の一部ではなかった、ということ。
最後以下の会話で議論が締めくくられるのである
ソクラテス:そうするとニキアスさん、勇気が何であるかを我々は発見しなかったことになります。
ニキアス:我々は発見しなかったように見えるね。
『プラトン 対話篇 ラケス 勇気について』プラトン著三島輝夫訳(講談社学術文庫)より
この終わり方がまたたまらなく素敵だ。
(感想)量としてはわずかな本だったがやはり理解するには2回読む必要があった。2回読んだが理解できているともいえない。なんとか理解できるようにとアウトプットしてみたが怪しい。実に怪しいなあ。次は『カルミデス』プラトン著を読む予定。