社会的個人と個人的個人

社会的個人という言葉も個人的個人という言葉も僕の造語である(もしかしたら社会ですでに流通しているものだったらすいません)。なんのために作ったのかと言うと、会社で仕事をする時にこの2つの言葉によって区分けをする必要が生じたからだ。何を区分けするのか。それは自分という立場である。何にも属しないで普通に生活するあり方を個人的個々人といい、会社などの組織の中に身をおいて過ごすもうひとりの自分を社会的個人という。なぜ自分の立場を2つに分ける必要があるのか?それはこうだ。

会社の上司から「お前のやりかたはだめだ!!!なっていない!!」と注意されたとしよう。その時にその注意の対象は誰であるのか?ということである。もちろん自分であるのは当然なのだが、その時に混同してしまうのが、個人的個人(固有的な自分)と社会的個人(会社組織に所属した役割を与えられた自分)である。「怒られて僕は自尊心が深く傷つけられた」と憤ることもしばしばだ。おそらくそのように感じる時は個人的個人(固有的な自分)を責められたと誤って受け止めてしまうのだ。実は上司は個人的個人(固有的な自分)には関心はなく、会社の仕事上のできごとのミスを責めているわけで、それは社会的個人の問題を扱っているのだ。なので会社で怒られている時にはこういう思考様式でいると楽かもしれない

「今怒られているのは個人的個人(固有的な自分)ではなく社会的個人の方の僕が怒られているのだな」

と。そう考えることで自己肯定感を無碍に傷つけられることもなく守ることが出来るのだ。僕も以前先輩的な立場にいた時には部下に対してかならず前置きして言っていた。「〇〇さん、これから言うことは社会的個人のあなたに対してであって個人的個人のあなたにではない。だから大丈夫。」と。反対の場合も然りで「社会的個人の僕には遠慮なく意見をしてもらって大丈夫。個人的個人は傷つかないから。遠慮なく」と。

この概念をある時期に獲得したことで会社での振る舞い方が少し楽になった。そしてここから僕の興味対象は、そういう個人的個人の世界とそこから派生する社会的個人の世界(共同幻想)へとつながっていったのだった。プラトンの『国家』との出会いもその延長線上と言えば実にそうなのだ。

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