
ググれば何でも知ることができる時代になって久しい。その昔、情報は人づてに伝播されていた。なので人と会うことが非常に価値をもっていた。それが今は「ググったの?」「ググればわかるよ」とひとことで終わってしまう。それは裏を返せばそれだけの情報が日常に溢れていてそれを収集するのが簡単になったということである。もう人づての情報はそれほど必要ないのか?いや、こんな時代だからこそ人づてのリアルな情報が意味を持ってくるというのもある。今回はそんな話を主にしたいのではなく、これだけ情報が集めやすくなると人は何でもできそうだという錯覚を抱いてしまいかねないということだ。要するに万能感を持ててしまうのだ。
この万能感は危うい気もする。なんでもできそうだというのは一見可能性の幅を広げてくれるような意味合いにもとれる。でも本当にそうだろうか?ひとつの欲望があったとしてそれがたくさんの選択肢によって希釈されてしまうような気がする。そうあっちにもこっちにも意思が分散されてしまうのだ。それでいて「なんとなくできている」ような感覚を得てしまう。その実何もできていない。間違ってほしくないのはじゃあ昔が良かったと言いたいのではないということだ。もう僕らは情報過多の時代に生きていて昔には戻れないのは明白な事実だ。
スマホを手にするだけでもう世界と繋がれるし交流もできる。なんでもできてしまう感覚はいつもそこに転がっている。だからこそ僕は思うのだ。人間は実はそんなに多くのことを処理する力も実践する力もないのだ。なんとなくそんな気になってしまっているのであれば、それは実は危ないことなのではないかと。なんでも出来ているようで結局なにもできないで過ぎてしまう日々。時間だけが無為にすぎる。ならばもう最初っから何もできないし何もしない自分でいることが必要だと思う。やれる範囲のことをしっかりやって生きる。自分で考えることをGoogleに委託しない。自分の記憶すべきことをGoogleにお任せしない。やれる範囲のことは自分でやってみる。そう、自分という固有性を確保する生き方をしていこう。
ダメダメな人生を送ってきた自分だけど、それなりの固有性がそこにはあるのだし、限られた中で限られた生き方をしていくのもある意味まっとうな生き方だと思う。
同感です。今もまったく同じことを考えていました。色んなことを考えたり、行動していたような気がしてるだけで、実際にはずっとスマホを眺めてるだけということもありそうです。当たり前の生活、身の回りのことを大事にしたいと思っています。
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六法全書を持ち歩き、さも法律家になったかの様な感覚と同じ感じですね。気を付けます。
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