
「知識とは何か?」という問いがメインのテーマ。若きテアイテトスがソクラテスに対して「知識とは感覚である」という解を手向ける。ソクラテスは自分は産婆役であり、青年たちと問答をすることによってその青年たちから新しい知識を生み出す役目を負っている。なので是非「知識とは感覚である」ということを突き詰めていこうと話す。
ソクラテスはプロタゴラスの説を引き合いに出す。「あらゆるものの尺度であるのは人間だ。あるものについては、あるということの、あらぬものについては、あらぬということの」と。これはプロタゴラスを評するときの彼の有名な言葉である。ソクラテスはこの言葉に疑問を投げかける。
各自の思いなすところのものはただひとり各自身がこれを思いなすのみであって、しかもそこに思いなされていることは皆ことごとく正しいのであり、真なのであろうならば、ここだけの話ですが、一体そもそも何が故にプロタゴラスは知者であり、したがってまた、それは正当なことになるわけですが、他の者どもの師として尊敬され、かつ、多額の謝礼金まで貰っていたのでしょうか。これに反してわれわれは、各人各自の知恵の尺度で自身があるにもかかわらず、何が故に学知の劣れる者として、彼のもとに出入りして教えをうけねばならなかったのでしょうか。
『テアイテトス』プラトン著田中美知太郎訳(岩波文庫)より
「あらゆるものの尺度・・・云々」とプロタゴラスが言っているにも関わらず、他人を教えそこで報酬を受け取るという矛盾をソクラテスは指摘している。人々がそれぞれに知恵をもっているというのなら他人から教えを受ける必要はないはず。またソクラテスはこうも言う。
それはすなわち、人と人との間には知恵の優劣があるということと、それからまた、その知恵の優者こそ尺度なのであって、私のような知識のない者は、どんなにしてみても、尺度にならればならんというようなことはないのであって、さきほど、かの人の代弁者として語られた言論は私に対して、欲すると否とにかかわらず、かかるものであることを強調しようとしていたけれども、そういうことはないのだということ、このこととを必然にかの人は承認しなければならないのだということですね。
『テアイテトス』プラトン著田中美知太郎訳(岩波文庫)より
そもそも知識のない自分なんかは尺度になんかなれないとソクラテスははっきりと言う。ここでもプロタゴラスの言は否定される。そして人々が仮に感覚したものを知識とするならば、これはテアイテトスも言っていることだが、感覚されるものが知識であるならば、聴覚、視覚、嗅覚などの五感などがイコール知識となる。でもよく考えてみると豚や狒々(ひひ)も感覚するわけで、それらもじゃあ知識になるというのか?という疑問が生じてくる。人も豚も同じ?知識を有している?まずはこの時点でこのような疑問が顕著にでてくる。更に知識は感覚であるををつきつめていくと、視覚についていえば、目を瞑った(つむった)場合はどう解釈すればよいか?目を瞑る→見えない(思い出している)→感覚がなされていないわけだから知識していない→知識でない、ということになる。
次にヘラクレイトス説と引用しつつ、万物は動く、ということからも人の感覚(覚知)は固定されるものではない。それは
したがって、このものーすなわち白ーそのものにも流出があり、また他の色への変動があるということになると、何かそれを色の名で呼んでしかも正しい呼び方をしているというようなことは、一体そもそもありうることでしょうか
『テアイテトス』プラトン著田中美知太郎訳(岩波文庫)より
「白」であるようにみえつつも「白でありつつあるもの」と絶えず変化しているものであるのだ。万物はあらゆる仕方で動いているものなのである。とするならば「そう」だとか「そうでない」とか物事を捉えて限定的に語ることはできないのではないか。感覚についてもこう言う感覚だ、という固定したものはなく感覚自体も常に動き変化している。このような感覚のありようだと知識イコール感覚だという前提で考えるなら、知識であるのか、それともそうでないのか、それ自体(知識)が流動的になものになる。
知識も動きつつあるものである、とするならば、プロタゴラスのいうところの「ある」だとか「あらぬ」という限定的な知識というのはそもそも成立しないというのがソクラテスが出した結論である。またテアイテトスが出してきた「知識は感覚である」もここで否定されたのであった。
以上『テアイテトス』の1/3の部分であるテアイテトスの出してきた「知識は感覚」とプロタゴラスの「あらゆるものの尺度は・・・」を論駁する箇所を要約してみた。かなり間違っている解釈もあると思う。でも今出来得る限りのアウトプットをすることが大事だという思いから文字化してみた。