
エウテュプロンという若者とソクラテスの対話が主で、話されるテーマは「敬虔とは何か?」だ。この<敬虔>という概念は、日本語によるそれではなく、
ギリシア人にとって<敬虔>とは、個々人の内面の問題であるよりも前にまず、宗教的な領域における国家的社会的規律の遵守という外的な行為に属する問題であった」(巻末解説より引用)。
『エウテュプロン』プラトン著今林万里子訳(岩波書店)より
この2人のそれぞれの出会いの場面ならびに対話の場面がアテナイにあるバレシウス役所の前であり、ソクラテスはメレトス(『ソクラテスの弁明』でも出てくる)から「青年たちを堕落させている」「新規な神々を創作して古来の神々を礼拝しない」罪で訴えられてその手続のため役所前にいたところで一方のエウテュプロンは自身の父(殺人を犯した奴隷を誤って殺してしまう)を殺人罪の罪で公訴しに来ていたところだった。エウテュプロンは言う
というのも、息子が父親を殺人罪で訴え出るなんて不敬虔なことだというわけですー、かれらときたら、ソクラテス、敬虔と不敬虔とに関する神々の法のあり方を、ほとんど何も知らないのですからね。
『エウテュプロン』プラトン著今林万里子訳(岩波書店)より
ソクラテスはそこまで言うエウテュプロンに対して「敬虔とは何か?不敬虔とは何であるか?」と問うのであった。
この「敬虔、不敬虔が何であるか」という問に対してエウテュプロンは
それでは、神々に愛でられるものが敬虔であり、愛でられないものが不敬虔なのです
『エウテュプロン』プラトン著今林万里子訳(岩波書店)より
と答える。結論から言うとこのエウテュプロンの定義はソクラテスとのディアレクティケー(対話の術)によってアポリアに陥る。この2人の対話を展開させたプラトンの意図とは何か?ということの方が実はすごく意味があって、<敬虔>という意味において一方のソクラテスはメレトスから控訴されて、もう一方のエウテュプロンは高々と敬虔なるものを掲げて登場し双方を対峙させている。この構図は何かというと、
しかしながら、エウテュプロンを嘲笑するアテナイの人々自身、彼とそれほどかけ離れた宗教的意識を持っていたのであろうか。ある解説者は、その誇張されたエウテュプロン像においてプラトンは当時のアテナイ人一般に共通する宗教観念の論理的帰結ーそれがいかに不合理きわまるものであるかーを明らかにしようとしたのだと見ている
『エウテュプロン』プラトン著今林万里子訳(岩波書店)より
ソクラテスが面識もない相手、メレトスから不敬神の罪で公訴されるにいたった背景は何であるのか?個人による訴えにみえて実はアテナイの人々の精神の集積に何かが作用してこの度の公訴にいたったのではないか?というのがプラトンの見解だったのではないだろうか。だからこそアテナイ人の意思がどんなものであるのかをエウテュプロンの衣を借りて語らせたのだ。アテナイの人々がもつ<敬虔>という意味、そして結局それはアポリアに陥ってしまうだけの理解でしかなかった。それほどの理解でしかないのに、メレトスをしてソクラテスを公訴させるのははなはだおかしいことであると。
この本は、共同幻想という視点で読みすすめると面白いと思う。集合体としてのアテナイ人の集合意思=共同幻想がどんなものであり、それがどう作用すればソクラテス公訴という流れにつながるのか、その内実がわかるからだ。