自分と向き合う時間をもつということ-手帳と日記とジャーナルと-2回目手帳は魔法的になる

流されるままに生きるとどうなるか。それはどういう状態を指すかというと、入ってくる情報から刺激を受け、それに一喜一憂をしまた情報から刺激を受けて・・・と無限に繰り返していくことをいう。別に情報を得ることがいけないと言っているのではない。入ってくる情報を無条件に何も考えずに受けていくことが良くないのだ。典型的なものとして挙げられるのがテレビである。スイッチを入れれば画面を通して情報が飛び出してくる。人々が楽しめるようにいろんな工夫がされているし見る側の嗜好に合わせたコンテンツで溢れている。例えて言うなら甘い食べ物を際限なく摂取してしまうあの感覚。何も考えなくて良い状況におちいると脳は考えることをやめてしまう。考えなくて済むことほど楽なことはない。そのループに入ってしまうと脳は楽な方を求めて思考してしまう。

ちょっと長くなったが、こんな感覚だけに支配された日常が続いたとしよう。もともとある私個人の固有性はいつどこで確認されるのだろうか。「あ、いやなことがあった。Twitterでつぶやけ」「LINEで友達に話そう」とか、感覚されたものを情景反射的に行動に移すことが日常に溢れてしまうと、吟味するとか考えるとか言う本来人間が主におこなってきた行動様式自体が失われてしまう。そう、主体性がどんどん削がれていってしまうのだ。だからテレビを見るな、と言っているのではない。Twitterを、LINEをやめろと言っているのではない。自分という固有性を確認する場を一日の中でちゃんと確保することが必要だと思うのだ。

そのためには自分の机をもとう。そこに座ればペンがあり書き写すものがあり、本の背表紙が見て取れ、手を伸ばせばそこにはお気に入りの本が並んでいる。たいそうな設備は要らない。それだけで十分。そこに座ってペンをもち真っ白なノートに何でもいい思ったことを書き込んでいく。時間にして20分から30分。〇〇という固有名詞を持つ自分と、固有名詞以前の自分と、社会的な自分と、いろんな自分が文字をとおして現れてくる。それら総合したものが今の自分を表すことになる。実は自分の実態なんてわかりっこないのだ。分っているつもりの自分というのはあるかもしれないが、誰も自分のことなんてわからないのだ。自分という幻想の生き物に、何が日々作用して自分を成り立たせているのか、自分たらしめているのか、をノートに文字で書くことによって確認していく。

これを一日数十分やることで劇的に生活が変わる。なぜなら文字におこしたことは何故かほぼ実現されるから。魔法のノートである。

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