『プラトンとの哲学 対話篇をよむ』納富信留著(岩波新書)を一部読んで気付いたこと

プラトン全集の1/3を読んだところで無謀にも『ソピステス』に挑戦した。しかしその難解さに潔く読むのを諦めてそこから数週間が経った。途方に暮れているところにネオ高等遊民さんの動画で「哲学書を読む意味を見出すには解説書に当たるのも良い」と知った。そこで『シリーズ哲学のエッセンス プラトン 哲学者とは何か』(NHK出版)が非常に読みやすくわかりやすかったこともあり、その著者納冨信留先生の本を解説書に選んだ。その本が『プラトンとの哲学 対話篇をよむ』納富信留著(岩波新書)である。

全部は読んでいない。一部である。第7章の「哲学者とその影」『ソフィスト』(ソピステスのこと)を数回繰り返して読んだ。そこで分ったのは、この『ソピステス(ソフィスト)』というプラトンの本は「ある」とか「ない」という存在論が主に論じられているものだと世間では言われているが、それだけではない、と先生は言う。存在論を主にプラトンがもっていきたいとすればタイトルを存在論とか関連した題名にしたはずだと。でも実際は『ソピステス(ソフィスト)』である。ここにプラトンの真意があるのだと先生は語る。

先生は問う「自分もソフィストではないか?」と。またこのソフィスト的なものは誰しも持っているものでる。あのソクラテスでさえ裁判にかけられ死刑に至る過程でソフィストと言われていた(でも実のところソクラテスは無知の自覚を通して哲学を行った)。そうソフィスト的なものは世間にたくさんふれている。洞窟の比喩で言われた洞窟の壁奥に映し出される幻影のように。そして先生は言う、プラトンはソクラテスをして対話篇に登場させ、哲学を成立させた、と。

ソフィストを忘却した世界に哲学者はいません。ソフィストを批判し、自身がソフィストではないと弁証していかないところに哲学は成立しないのです。(中略)哲学者はソフィストとの対において、初めて成り立ちます(221)

『プラトンとの哲学 対話篇をよむ』納冨信留著(岩波新書)より

先生は「内なるソフィスト」と対決することが哲学になると言っている。対決、である。『ソピステス』では「ある」とか「ない」についてのことだけでなく、自分自身どのような存在として生きるか(ソフィストとしてなのか哲学者(フィロソフォス)としてなのか)を問う本だということがとりあえず分った。そしてこの本(『プラトンとの哲学 対話篇をよむ』納富信留著(岩波新書))を読んで良かった。なぜなら『ソピステス』を途中で投げ出し、もしかしたらそのまま永遠に読まなかったかもしれなかったからだ。しかしそこに改めて興味を向けさせてくれ、なによりも、この僕にも存在する「内なるソフィストと向き合う」というテーマを与えたくれた。これは非常の大きい収穫だ。

だからといって簡単に読める本ではないのは分っている。でも大まかなイメージは持てたような気がする。さあ、どうする。紀元前の大著を読みすすめることはできるか。

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