あれだけ本を読んでいたのに一切読まなくなった

机の上に並ぶプラトン全集

うつ状態がひどくなってストレス要因になっていた読書(プラトンの著作集を全部読む)を止めてから今日で45日になる。その間にまったく読まなかったかと言うと少しは読んだ。岩波新書の納富先生の本をパラパラと読んだりしたが、その程度である。今は本を手にすることもほとんどない。プラトンの著作集も3分の1は読んだのでそれなりに読んだほうだと思う。それらをブログでアウトプットもした。でも不思議と内容を殆ど覚えていない。『国家』とか『饗宴』とか『パイドン』『パイドロス』などなど読んだが、あんまり内容を覚えていない。でも確かに1月から7月にかけて読んだのは間違いない。アウトプットの方法が正しくなかったのか。それとも無理矢理読み進めたため内容が追いつかなかったか。よくわからない。

本を読むことが目的になっていたのだろう。何かやっているという実感がほしかった。わかりやすい性格である。本を手にして満足。そんな感じだろうか。いやいやそこまで自分を責めなくても良いだろうに。たしかに本自体に興味があったし読んでいて勉強になることもたくさんあった。そして読みすすめるうちに自信にもつながっていった。プラトンの本は僕の人生においてものすごい衝撃を与えたし精神的な部分を構成する大事な要素をたくさん与えたくれた。と思っている。

目の前にプラトン全集がならんでいる。その3分の2はまだ読めていない。数ヶ月前の僕だったら「絶対読んでやる!!」と意気込んでいただろうが、今はすっかり置物化してしまっている。そう風景の一部になっている。この本を次手にするのはいつだろう?果たして手にするのだろうか?わからない。でも僕の読書人生において積ん読とか置き読(こんな言葉があるのかは?だが)とかはいずれ本の方から僕を引き寄せるということがあるということを知っている。その存在はたしかに「ある」のだから。

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