
なんでもかんでもタンクローリーの仕事をしていた時と絡めるのはどうかと思いつつも、この手帳のメモ(タイトルにあるように)を見るにつけ、どれだけ本に飢えていたかが分かる。ルソー?古典?どうして読むようになったの?と自問自答するに、おそくら僕は自分の後ろを思い切って振り返ってみたのだと思う。そうだ、僕の後ろには人類の蓄積がたくさんあるのだ、と。僕が目の前の出来事にとらわれてアップアップしている時にふと「僕の一生なんて大河の一滴でしかないわけだ」「でも連綿と続く人類の端くれではあるはずだ」と思ったわけだ。
タンクローリーに乗って仕事をしていた時は毎日疲れ切って倒れ込むように寝てはまた起きて仕事の繰り返しで本なんて全く読めなかった。タンクローリーの仕事をやめた途端、僕はミッシェル・フーコーの大著『言葉と物』を読み始めた。まさかこの難解な本を僕が読むとは思ってもいなかったので、反動とはすごいものだと我ながら驚いたりもした。その当時すでに今の職場にて仕事を始めていたわけで、仕事をしながら合間にこの本を読み進めた。今読めと言われたら読めない。よく読めたと思う。いやいやルソーの話ではなかったのか?そうルソーにたどり着くきっかけになったのもこのフーコーのおかげなのだ。フーコーたちが莫大なる影響を受けたルソーという人物を僕は当然ながらたどることになったのだ。
ルソーの『社会契約論』や『エミール』を読むとルソーという人物の個性がこれでもかと文面にあらわれている。そして当時としてはとても勇気のいる言論をしっかりと打ち立てていて実際に書籍にまでしている。そのすごさに僕は「勇気と知恵に学べ!!」とメモを走り書きしたのだと思う。ルソーからたくさんの学びと刺激をもらって僕はその延長線上でプラトンと今度は出会うことになる。古典を読みすすめると現代の問題がより客観的に見れるようになると思う。なぜなら問題の表面は違えどその根っこは変わらずに昔からあるからだ。根っこは変わらないからその処方箋も過去のどこかに転がっているはずだ。だから古典を読む、わけだ。