誰のために生きるのか

何歳になろうとも自分のために生きるのが大事だと思う。ひとからとやかく言われることもあるだろうが、結局自分の人生は自分で生きないといけない。たとえ結婚して子どもがいたとしても、自分が自分の人生を生きないと、結局誰のためにもなりえない。だから決断するのだ。自分が生きたいように。自分が今やりたいと思ったことを思い切ってやってみる。それが実にシンプルで良いと思う。その決断の先は茨の道かも知れない。失敗が見えているかも知れない。でもやってみないとわからないのだ。何事も。そして予め失敗するとか成功するとか分かっていることはチャレンジとは言えない。仮に成功が約束されているのならそれはチャレンジではなく何か別のものだ。そしてそれはワクワクもドキドキもしない。僕は今大きな岐路にたたされている。またか?という声が聞こえてきそうだ。でもしょうがないまた熱病にかかってしまったのだ。そううつ病のせいだろう?と自分の声もこだましてくる。でもうつ病であることで自分が正常な精神をきたしていないかというと、あながちそうでもないような気もするのだ。なぜなら毎日手帳にエクスプレッシングライティングをして自分の内面を文字に書きあらわしているからだ。そこから読めることは、とにかく僕はずっとその道にすすみたい、と思っているのだ。でも正直なところリスクが高いので躊躇しているのも事実。今のまま安定した生活を送ったほうが僕も、そして僕の周りにいる人も安泰だ。何も波風が立たない。でも僕はここではなくそっちの方へ気持ちが行ってしまっているのだ。人生が大きく激変する可能性だってある。途中で体を壊して倒れてしまうかも知れない。いろいろ心配な要素はある。山ほどある。でも僕をそっちへ誘うものがある。あるのだ。どうしたらいい?誰かに相談したらいい?相談したらかならず「やめたほうがよい」と言われるに決まっている。今の仕事、経歴、給料、住むところ、全てがベストだからだ。やっぱり最終的には僕ひとりで決断しないといけないと思っている。宮台真司が本の中で言っていた「むき出しの個人の時代」だと。そう、共同体も脆弱化し個人で踏ん張らざるを得ない時代になってしまって、その時にもう個人でそれも一人暮らしでうつ病で、むき出しっぱなしの生を生きている僕にとって、生きていくこととは何か?とつきつけられる。なんのために生きているのか?と。どちらかというとその問のほうが今の僕には重要な気がする。なんのために生きているのか?わからない。いまだもってわからない。

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