
タンクローリーに乗って仕事をしているときのこと。僕はとあるガソリンスタンドで荷降ろしをしていた。ごく普通の町中にあるガソリンスタンドだ。そのガソリンスタンド近くには私鉄の駅があり、そこから歩いて家路に向かう人、バスで移動する人などたくさんの人の動きが目に見て取れた。僕はスタンドの給油口にホースをつないでガソリンを下ろしていたが、その通行人を見ながらふと思ったのだ。あそこを歩いている人たちと、今僕が立っているその間には見えない境界があって、それはおそらく社会の分断線ともいえる境界があるのだと。そう、こっちの社会とあっちの社会を分けているのである。僕と言えば早朝から仕事をし始め、コンビナートの一角でガソリンを積み込み、目的地のガソリンスタンドへタンクローリーを走らせる。仕事が終わるのは夜遅くだ。終わったなら自家用車で家に帰る。その一連の動きは、ほぼトラックの中で過ごす時間がほとんどで、地面に足をつけるのはコンビナートの精油所かガソリンスタンドだけであった。そう人々の日常の場の中で特に限定的になるガソリンスタンドという場所でしか社会との接点はなかった。そんな唯一接点のあるはずの場所でさえも、そこにいて分断されている何かを感じてしまうのだった。
世の中には、社会を切り分ける分断線があるのをこの時強く知った。そして僕はもう2度とああいう社会にはもどれないのだろうと少し寂しさというか刹那を感じてしまったのだった。この時に感じた感覚は非常に強烈なものだった。どういうことかというと、一旦ある社会に属してしまうと、別の社会への移動にはものすごく意識をしないと戻れないということと、物理的にもかなり労力を要するももだということだった。実際僕がタンクローリーの仕事を断念し退職をしたあと、以前いた社会にもどろうとする際に、精神面、体力面で大幅な転換が求められ苦心したのを思い出す。身体がまず自分のものではなく別物のように浮遊していたし、精神面でも、これまで見れていなかった風景が途端に見えるようになって混乱していた。そんな時期が1ヶ月ぐらい続いた。そう、海から川に遡上する鮭が汽水域で身体を慣らすようなそんな感じで。
だから今回仮に僕が大型トラックに乗る仕事に転職をしようとするなら、またこっちの世界からあっちの世界へと移動することになるわけで、それはすごい労力と精神力を伴う大変な事業であると今なら思えるのだ。なぜなら以前それを経験をしているから。だから覚悟の仕方も変わってくる。簡単に転職とは言えないわけだ。社会を横断して尚、元の世界とは違う社会へ入っていきそこで新しい仕事にも慣れないといけないし生活にも慣れないといけない。そんなことが今の僕にできるのか?わからない。でもひとつ言えることは、今ならその社会の分断線の存在は知っているから相対化はできるということだ。「こっちの世界はこうだったけどあっちの世界はこうなのだ」と。