あの頃の、そう、まだお酒を飲んでいた頃の自分は、一体何者だったのか?

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992日目。2年8ヶ月と18日が経ったことになる。当時のことを思うだそうにも思い出す術がない。僕の脳みそは頼りないポンコツなので思いだそうにも思い出せない。あの当時、そう、まだお酒を飲んでいた頃の自分は、一体何者だったのだろう?仕事では偉そうに組織論なんかを語っていた。プラトンの言うところのソフィストさながらの生き様だった。まるっきり哲学なんてしていないかった。口先だけの弁論に長けただけで中身は空っぽだった。だから僕は遅かれ早かれその組織から出ていく運命だったし、結果そうなった。

実は自分がソフィストだと気付いたのは、納冨信留先生の本を読んでからだった。プラトンが、ソクラテスが、ソフィストを批判していたのを知り、まさにソフィストこそあの時の僕の姿そのものじゃないか、と思ったのだった。僕は雄弁に色々と組織論を語った。悪気はなかった。そこには言葉によって塗り重ねられただけのはりぼてのようで中身のない記号たちしかなかった。何故それに気付いたか。それは今の職場に来てから、僕がいかに言葉に頼って仕事をしてきたか、それがあぶり出されたのだ。そう、仕事の核となる支援力が断然に弱かったのだ。弱かった上に、更に、仕事が出来るものだと高をくくっていた。そうこうしているうちに同じスタートを切った同僚たちにどんどん支援力で抜かれていった。僕は心の中で叫んだ。俺には知識と経験があるんだ!!と。でも実際はそうソフィストでしかなかったのだ。そんなものは時が過ぎれば風と共に吹き散ってしまっていた。目の前の子どもたちにとって何が正しいのか、何が善いのか、何が美であるのか、を真剣に考えて身を粉にして動いていたのは僕ではなく同僚の若い人たちだった。彼らは見事だった。そして格好良かった。

でも僕は気づけた。プラトンの本を読んだことでソフィストというものを知ることが出来たし、そうなってはいけないということも。じゃあ今から何ができるか?わからない。正直なところよくわからない。でも僕は子どもたちの魂的生き様に寄り添うように仕事をしていこうと思う。それは重心を低くして子どもたちの魂の場所まで降りていくことだ。うまくいえないけど、そういうことだ。僕は今こうやって言葉にしているが、若い人たちはあっさりとこれをやってのけている。僕は出遅れた。そしてかなりの周回遅れをとっている。その遅れは取り返せないかも知れないけど、いいのだ。ずっとソフィストで走り続けていたらそれこそ取り返しのつかないことになっていたのだから。

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