知ってるつもりと知っていることについて

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仮の話だ。仮の話で僕が今異業種へ転職を考えているとしよう。今僕はとても不安な気持ちになっている。なぜ不安になっているのだろうか?その業界は肉体労働だし長時間労働だし身体がもつかどうか、身体を壊してしまうのではないだろうか、その仕事に就いてしまうと寝不足とか生活がかなり不規則になるのではなどと勝手に思っている。勝手に思っていると書いたのは、わずなか情報だけを頼りにイメージを膨らませているからだ。イメージの膨らませ方は個人によって違ってくるので、僕の場合は僕の思考様式レベルに合わせてイメージが作られている。じゃあそのイメージは本当のものなのか?というと全然違っているわけで、わずかばかりの情報によって僕が勝手にイメージしたものでしかない。

要するに勝手なイメージによって勝手に不安になったり怖がったりしているのだ。自業自得といえばそれまでだ。じゃあそんなイメージを打ち破るためにはどうすればいいのか?というとやはり実際に知るということが大事になってくる。実際に知るとはどういうことかというと、その物事にできるだけ近づくことだ。近づくためには手で触れるように近寄らないといけないし場合によっては手で触れることをしないといけない。または対話をとおしてそのもの事態が何であるかを聞き知っていく。そういう接近や対話をとおしてそのものが何物であるかを分かっていくのだと思う。

いわゆる分かったつもりになっているというのが一番まずいのだ。例えば「死」ということについて私たちは漠然と不安感や恐怖感をもっている。でも実際に死んだことは無いわけで、死そのものについて知るよしもない。知っていないことに対してなぜ恐怖や不安な気持ちを抱いてしまうのか。本来なら抱きようはないはずだ。とするとどういうスタンスをとるべきかというと「知らない」から「怖くない」となるのだ。この論法で無知に対するスタンスをとるべきで、知らないということを自覚すること、それが重要になってくる。知らない、わかっていない、ということをはっきりと自覚する。そうすることによって知らないという地平に立ててそこからいろんなことを追求したり考えたりすることができるようになる。だからまずは「知らない」という自覚をもつことが大事なのだ。「知らない」から始まり「知る」へと至る。

さあ、繰り返そう。僕は知らないのだ。知っていない。知っていないから知ることが必要だ。そのためにはどうすればいいい?そのものに近づくことだ。近づいて目で見て対話をし対話の中から何であるかを生み出していく。プラトンの本を読んでいてよかった。こういう思考様式にたどり着けたし、分かったつもりになっていた自分を自覚させてくれ、知ることへの追求へと視点を向けさせてくれたことだ。さて、この先どうなるかはまだわからないが、わからなくていいのだ。全てはわからないから始まるのだから。

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