おにぎりの力

どうしてもご飯を残す子どもがいた。その子は笑顔で、それもニコニコしながら「〇〇のごはんが食べたい」と言った。〇〇とはその子が赤ちゃんのときから育った施設の名前だった。その子はおそらくその施設で大変温かく幸せに育ったのだろう。そしておいしいご飯もちゃんと提供されていたのだろう。ふだんあまり本音を言わないその子がめずらしく元いた施設の名前を出してそれもそこのご飯が食べたいと素直に言ったのだった。正直僕がはたらく施設のごはんはおいしくない。これは非常に悲しいことで、食は生活の中心になくてはならないのに、何故かおいしくなくて冷めた貧素な食事が提供されるのだった。2020年の日本においてである。なので食に敏感な小さな子どもたちは美味しくないものは食べないし嫌がる。結局白米だけかきこむことになるのだが、その子は白米さえも時には残すのだった。僕は頭を抱えた。どうしたらご飯だけでも食べられるようにならないものなのか、と。そこであることを思い出したのだった。以前勤めていた職場で先輩職員がご飯をサランラップにのっけておにぎりをつくっていたなあ、と。ごはんがおにぎりになるだけで食の細かった子どもたちがばくばくとよく食べていた。それを思い出したのだった。僕の働く施設はいろんなことがマニュアル化されているので例外的なことはご法度だ。でも僕はその子にどうしてもご飯だけは食べてほしかったので、特別におにぎりを握ってあげた。ごはんをラップにのっけて握っただけである。たったそれだけのことだったがその子は大喜びをしすぐにそのおにぎりを平らげてしまった。他の小さい子たちも「僕にもおにぎりつくって!!」と羨ましそうに言っていた。その子達はもう自分のご飯は食べ終わっていたので「また今度ね」と約束だけをした。

なんて言ったら良いのだろうか。僕はたったこれしきのことをこれまでやってあげれなかったことにショックを受けた。十数年もこの仕事をやってきて、やっと今ごろになっておにぎりを握ることを思いついた。やっと、である。僕は子どもに寄り添って支援をするという仕事をしているが、相変わらず頭は硬いし、応用がきかないし、何よりも思いやりが薄いのだった。おにぎりはただの白米である。ご飯茶碗にいれようがおにぎりにしようが白米は白米である。それは大人的な考えである。それを両の手でにぎっておにぎりにするだけでそれは1つの価値を生む。愛情、である。その愛情を欲しているのが子どもたちである。僕は支援者としては随分とだめな支援者である。今回の件で改めてそう思った。

でもこっそりとまたおにぎりを握ってあげようと思った。たとえそれがマニュアルにないことであっても、そこに1つの価値が生み出されるのであれば、それこそ仕事として意味を成す、というものである。そしてなによりもそこにこの仕事の大事なものがあるのだと思う。

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