いつ自分と対話するのか?日記や手帳にあれこれ書くと良い

愛用している手帳

机に向かって日記や手帳にあれこれ思っていることを書いていく。それを習慣として毎日30分ぐらい白紙のページに文字を書いていく。白紙だった紙の上に頭の中であれこれ考えていた事が文字という形になって現れる。文字になる前は一体どんなものとして頭の中にあったのだろう。おそらく音声だったり画像だったりいろんな物質が頭の中を行き交っていて、それは電気的な信号だったりするのかもしれない。それこそ何かであるはずなのだが何かということは分からない。

そう、分からないまま何となく何かを考えているような気のまま時間だけが過ぎていき、それが実際の生活のように思って過ごしたりしているのだろう。いろんなことを感じて考えているのだが、それはモヤっとしていて所謂「言語化」されていない。もっと正確に言うと、そのモヤっとしたものを放っておくと、自分が一体何を考えて行動しているのかという根拠を失う。それが怖いから人類は言語を発明したのだと思う。

しかし現代という社会においては、この言語というものが自分の言葉として成立する前に、情報として形だけのものがわんさかと向こう側からやってくる。何となくそこに正きものなんだとそこに幻想を得て、実態が無いままひとり歩きをし始める。そもそも言語も幻想な訳だから、幻想が幻想によって更に幻想化される。実体がそこには無い。無いと感じられればまだ良いが、実際はそれが真実や実体として取り込んでいくことが殆どだろう。

世の中の幻想的なるものの前に自分という幻想を実体として捉えないとそもそもいけないわけで、だから日記や手帳が登場するのだ。日常的に自分の頭の中にある茫漠とした感覚的なものを言語という形に昇華させる。そのことで社会という幻想に向き合うだけの実体が確保される。要は社会という幻想に向き合うための公式を手に入れるのだ。いったんこの公式を手に入れれば社会の幻想としての言語が幾分か理解しやすくなると思う。

だからこそ毎日自分がどんな思考回路で何を感じたかを言語化する習慣が重要になってくる。白紙の紙に思っていること、感じたことなどを遮二無二書き連ねていく。文字化された言葉たちは何も言い返してくれないし、もちろん同情などしてくれない。でもそこに現るのは正に自分という実態の一部なのだ。鏡に映る自分よりももっと深いところにいる自分との対峙とも言える。だから凄く貴重な体験なのだ。タバコを吸ったり酒を飲んだり性欲に駆られたりするような一瞬の快楽に逃避する前に、その頭の中にあるモヤっとしたものは何なのかを明らかにしていく作業。それが日記書きであり手帳書きであるのだ。

唯一無二である自分という存在、それを手書きの文字によって脳みそから絞り出して形にする。「自分はこんなことを考えていたんだなぁ」と気づく。僕は日記に書くという習慣も手帳にあれこれ書く習慣も40代終わりになってするようになった。だから偉そうなことは一切言うつもりはないが、正直なところを言うと、日記や手帳に書く習慣がなかったら僕はいろんな意味で間違った人生をあゆんでいただろう、ということである。そう第一次的感覚に流されて「何となく嫌だなぁ」「何となく良いなぁ」だけで物事の判断をしていただろう。実際過去の自分はそうだった。日記や手帳に書くようになって自分という存在が何を考え何を悩んでどうしたいのかが分かるようになった。何故なら文字化(言語化)されているからである。文字化されるという行為は視覚化されるということでもあり自分へのリターン(理解、記憶など)も大きい。

自分と向き合う。そのためには日記や手帳にあれこれ書いてみることをおすすめする。何でも良い。とにかく思っていること感じていることを書き出してみよう。できれば手書きが良い。目に見えるし手でも文字の成り行きを感じられるから。こんな僕でも書くことによって救われたと思うのだ。そして書いた文字は必ず自分を見捨てない。

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