
ニーチェの永遠回帰という思想はいったいどういうことを言っているのか?この思想は背景がとてつもなく広大で長いということが大前提となる。宇宙の誕生から滅亡までのスパンがあるとすると、この永遠回帰という思想は、宇宙の誕生から滅亡までがあったとして、その先、滅亡した後も再び宇宙は誕生してそっくりそのまま同じ道のりを歩むというのだ。直線で時が流れるのではなく、丸い円、円環的に時は流れ歴史は繰り返される。人間においてもそうである。一瞬一瞬に新しい出来事が起こっているように見える人の人生も、実はその一瞬は過去に実際あったことであるし、繰り返されるというものなのだ。ニーチェは言う。
「あなたがたはかつて一つのよろこびに対して「然り」た肯定したことがあるのか?おお、わが友人たちよ、もしそうだったら、あなたがたはまたすべての嘆きに対しても「然り」と言ったわけだ。万物は鎖でつなぎ合わされ、糸で貫かれ、深く愛し合っているのだ、」
p325 『ツァラトゥストラはこう言った』ニーチェ 氷上英廣 訳 (岩波文庫)
要はこう言うことだ。一瞬一瞬起こる全てのことは、それ単独であるのではなく、過去の様々な出来事の積み重ねの上にその成立要因を持っている。どの過去事実が欠けても今という瞬間は成立しないのだ。たとえ現在が辛い状況にあってもそれは永遠回帰という円環する流れの中においては、部分一部にしかすぎず、過去に一度でも幸せな体験をしたことがあるならば、その繋がっている関係において不幸せな今も「良し!!」となるということだ。不幸せな今も含めて幸せ要因の一つなのだ、というわけだ。
全ての出来事は永遠に繰り返される。そういう思想に立つと何を意識するようになるかというと、今、という限定性が無化されるということである。例えば、今は私は転職したという事実に向き合っている。転職をしたものの自分の希望にかなった職場ではなかった。なので今の私はとても不幸である。そう考えているとしよう。ニーチェ思想のなかで有名なのがルサンチマンである。日本語でいうと「恨み」「嫉み」というところだろうか。このルサンチマンを持つことで不可逆性な時間に対して復讐をしようと試みる。「こんな職場にしか行けなかったのは社会的な状況のせいだ」「親がむりやり行けといったから」など自分の問題なのに他人の問題にしようとしてしまうのだ。それがルサンチマンをもつということである。このルサンチマンを一度持って発動させてしまうと、結構厄介でこじらせてしまう。自分の目の前の問題を解決するよりも文句ばっかり言って何もすすまないという状況がまず出てくる。ニーチェはこのルサンチマンは噛み切って捨ててしまえと、強く言っている。そしてこの永遠回帰である。人の運命というものは円環的に続いており、過去の出来事もそっくりそのまま繰り返されると言う。そんなときにその円環をぶったぎるような「もうダメだ。おしまいだ」「こんな人生なんて二度とゴメンだ」と言っても、永遠回帰思想においては、でも同じことは繰り返されるよ、だから嘆くよりも、今その目の前の問題を現実的に受け入れて前向きにとっていくことが大事だと説く。なぜならその一瞬一瞬のできごとはこれまでのいろんな出来事(楽しかったこと、苦しかったこともふくめて)との連続したつながりのなかで存在するのだから、と。ものすごくわかりやすく言うと、たとえ現実が辛くても、この辛い出来事は、どこかで自分を幸せにしてくれる出来事(これも過去にあったはずである)との関連性において大事なものだ。だから今の不幸せな出来事もかならず幸せに向かってつづくきっかけなのだ、と。
「すべての真理は曲線なのだ。時間そのものもひとつの円形だ。」
(中略)
「見るがいい、この『瞬間』を!この瞬間の門から、ひとつの長い永遠の道がうしろの方へはるばるとつづいている。われわれの背後にはひとつの永遠がある。およそ走りうるすべてのものは、すでに一度この道をはしったことがあるのではなかろうか?およそ起こりうるすべてのことは、すでに一度起こり、行われ、この道を走ったことがあるのではなかろうか?すでにすべてのことがあったとすれば、小人よ、おまえはこの『瞬間』そのものをどう思うか?この門もまたすでにーあったのではなかろうか?そして一切の事物は固く連結されているので、そのためこの瞬間はこれからくるはずのすべてのものをひきつれているのではなかろうか?したがってー自分自身も?
(中略)
そしてここに月光をあびてのろのろと這っている蜘蛛、この月光そのもの、そして門のほとりで永遠の問題についてささやきかわしているわたしとおまえ、ーわれわれみな、すでにいつか存在したことがあるのではなかろうか?」
p20ー21 『ツァラトゥストラはこう言った』ニーチェ 氷上英廣 訳岩波文庫)
もう少し考えてみる。いまいち永遠回帰について理解ができていない。円環的につながっているのが人の人生であり、今起こった事実についても過去のどこかでおこなわれたことである、ということだった。いまいちピンとこない。ここはまだまだ読み込みが足りていないからだと思われる。もしかしたら私の中ではすでに繋がった円の中をイメージしているのかもしれない。でもまだ私という個体はまだ死んでいないし当然円環的に繋がっているわけでない。ニーチェ的には、今という瞬間が最先端で今からつながろうとしている円の途中というイメージなのかも。それでも過去は永遠と生成されている。でも過去におこなったことがある、経験しているということだ、という点ではやはり同じ円の中をすすんでいる、というイメージなのか・・・。その固有的な円環自体(永遠回帰性)を成立させるためにも、その各所で起こった「瞬間」はどれもなくてはならないものなのだ、と。よいわるいも含めて。だから目の前の大変さ、しんどさに呑み込まれるのではなく、円環性という永遠回帰をイメージして生きていくのが良いのだ、とニーチェは言いたかったのだろう。ドミノがお互いに倒れることで前進しているように、瞬間瞬間の出来事が実は過去に倒されたドミノによって起こされているのと似ているかな。今倒れたドミノが回り回ってエネルギーを伝導させている。そんなイメージだろうか。今その瞬間に倒れた、ドミノのエネルギーがまた巡って今に帰ってくる。実際には倒れっぱなしだろうが、イメージとしてそれでいいと思う。
でもまだ正直なところ良くわからない。まだまだ読み込んでいかないといけないなと思っている。